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「姉川御合戦図」のこと

テーマ:姉川合戦
名古屋に徳川家にかかる古文書類を収めた「蓬左(ほうさ)文庫」があります。ちなみに、この蓬左は、名古屋を指す言葉で熱田神宮の左という意味だそうです。

たまたま、ここで7月25日から9月30日まで、「戦国の合戦」と銘打った企画展が開催されています。

その展示品の中に、「姉川合戦御絵図」があります。これが、どうやら当館で常設展示している「姉川合戦絵図」と同一というより、その原図と言えるように思います。ただ、両者を見比べますと、微妙な違いがあります。

原図には、北国脇往還や北国街道、その他の街道が描き込まれていますが、当館のものには、街道は一切省かれています。

街道が描かれている関係か、野村の少し東外れ、八島の西南、郡上などに、道を挟んで黒丸が2つずつ描かれています。おそらく、一里塚を示しているのではないかと思います。

また、この絵図の右端に、原図では「姉川御合戦之時分、郷人ともはしご山へ北(にげ)上り見物故、相残者共物語仕候モ慥(たし)かに無之候」とありますが、当館のものでは「姉川合戦ノ時、郷人共ハシゴ山ヘ登リ見物仕、残ル者共ノ物語分明々・・・云々」と、なっています。「姉川御合戦の時分」が、「姉川合戦ノ時」に、ひらかなが、かたかなに、など少々わかりやすく書き改められているように思われます。

各場所での戦闘の記録に死者の数が、当館のものはどの場所も「大勢討死」とありますが、原図の方ははっきり読み取れません。

いずれにしても、原図を書き写した物がかなり出回っていて、そのうちの1枚が「古物屋さん」を通じて、長浜城歴史博物館にやって来たといえます。

写真 当館で展示中の「姉川合戦絵図」




信長って、こんないい人です!

テーマ:姉川合戦
姉川合戦で織田軍に生け捕りにされた浅井長政の家臣、安養寺三郎左衛門の話です。

信長は、彼に浅井の首実検を担当させます。

彼は、次々と首の名を答えて行きます。その中でも、竹中久作が取ったと言う首を見て、三郎左衛門は大いに驚き、竹中に聞きます。「この方は、どのような働きをしておりましたか?」と。

「この者は首一つ抱えて味方を装い、信長公の陣近くまで来て、『殿はどこに?』と聞いてきた。そこで、こやつは敵だと気付き、首を取ったのだ。」

「そうですか…、この方は遠藤喜右衛門殿と申します、昨晩大依山において、『もし負けるようなら生きては帰らぬ!撤退するくらいなら、信長に一太刀浴びせてくれるわ!』と、申しておりましたが、やはり信長公の近くまで進んだのですね。」と、三郎左衛門は感激して首を見つめたといいます。

特別展でこの遠藤喜右衛門が寄進した屏風を展示しています。

次に運ばれてきた首を見た瞬間、三郎左衛門はにわかに顔色を変え、がっくりと頭を垂れ、涙を流します。信長が「何事か?」と問いますと、「この首は、私の弟、二人です。合戦の前、死ぬならば一緒だぞと語り合っていたのに、先立たれてしまうとは…この上はどうか、お情けと思って我が首を刎ねてください!」と言います。

そして、それ以上首の名を答えようとはしなかったのです。信長は「そうは言うが、わしは先に、おぬしの命を助けると言った。いまさら殺すわけには行かぬ。どうかこのままわしの元に仕えてくれ。」と、三郎左衛門に懇願します。しかし彼も「命をお助けいただいても、私は弟を打たれた恨みを晴らすため、小谷に帰り織田と戦います!」と言ってきかなかったのです。

そこでどうしようもなくなった信長、ついに三郎左衛門を小谷に返してしまったというのです。

信長が、珍しくとっても魅力的に見えるいいお話でした。

ネットで拾ったんですが、かなり原文に忠実で、原作者に申し訳なく思っています。お許しください。

写真 長浜市垣籠町地先にある「遠藤喜右衛門直経」の墓

元祖七本槍は姉川です

テーマ:姉川合戦
七本槍と言えば、「賤ヶ岳の七本槍」が有名ですが、姉川の合戦にも、「姉川の七本槍」と呼ばれる武士団がいたというのです。

「姉川合戦」は、元亀元年(1570)で、「賤ヶ岳合戦」は、天正十一年(1582)、姉川の方が、古いわけで、「姉川の七本槍」が先に言われ、後、「賤ヶ岳の七本槍」が登場したと考えられます。

「姉川合戦」は諸説ありますが、本館の「姉川合戦絵巻物シアター」は、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の間で大規模な戦闘が展開され、多数の死者が出たという激戦パターンで作製されています。

しかし、地元では「三田村合戦」、「野村合戦」と呼ばれていたものが、徳川時代になってから「姉川合戦」と変えられたこと、「姉川合戦」の2ヶ月後、浅井・朝倉軍は平然と大津まで遠征し「志賀の陣」を戦っていることなどから、この戦いは小競り合い程度でなかったかという視点も口頭で紹介しています。

ここでは、激戦パターンでないと、話が合わないので、そのようにご理解ください。

徳川軍の先陣を切った酒井隊に続いて、小笠原隊が姉川を渡り、朝倉軍へと突入します。そんな中で、ひと際目立つ男がいました。 姉川合戦図屏風にも、派手な旗指物を付けている男、渡辺金大夫です。

そして、合戦も終った夜、勝利に酔う信長は、金大夫を呼び寄せて、「あっぱれ!天下一の活躍だ!」と、褒めたたえ、褒美を手渡したのです。

すると、、ここで不満なのは、ともに活躍した残りの連中・・・門奈左近右衛門・伊達与兵衛・伏木久内・中山是非之助・吉原又兵衛・林平六の6人です。

「金大夫より先に進んで戦っていたのに、目立たなかっただけで不公平や!」と猛抗議し、結局、信長は、後日、残りの6人にも褒美を出したといいます。

これで、7人・・・彼らが元祖「七本槍」、「姉川の七本槍」と呼ばれる人たちです。

写真 姉川合戦図屏風と部分拡大

姉川合戦場から消えた丘

テーマ:姉川合戦
地元の当ブログファン?の方から、こんなメールをいただきました。(この世代の方なら、だれしも考えることで、私も、全く同感でした。)

リクエストばかりで、申し訳ありませんが、もうひとつ子どもの頃から謎に思っていたことがあり、何かの機会があれば、教えてください。

『姉川の合戦』に関してですが・・・・・。

大河ドラマを初め、数々の歴史物のテレビで、合戦の様子を再現するシーン、あるいは戦場の絵図やイラストを見るたびに、疑問がわいてきます。

あの辺りには、たしか山(又は大きな丘)が、あったのではないでしょうか?母は、『ミソコシ山?』と呼び、私の記憶では、『オカヤマジドウカン??』ではなかったかと思います。

それが、上記のドラマや戦場イラストに描かれていません。私が子どもの頃、撤去されたそうですので、どの辺りかさっぱり覚えていませんが、戦場の真中のような気がします・・・・・。

お答え 浅井軍は朝倉軍とともに、姉川の対岸に織田・徳川軍がやってきたことを確認し、小谷城を出て大依山に陣を置きます。そして、4日後、姉川北岸に軍を進めます。

その際、浅井長政が陣を敷いた処は、今も「陣田」と呼ばれる場所で、以前は少し高めの畑だったそうですが、圃場整備事業で水田に変わりました。

この近くに、「みそこし山」「茶臼山」「おか山」などと呼ばれる、高さ10メートル、広さは中学校のグラウンド位の丘がありました。メールの方だけでなく、私も、現地を地図で確認するまでは、イメージ的に何故この山を利用しなかったのか疑問に思っていました。

しかし、地図を見ると、一目瞭然です。大依山から姉川合戦場を目指す場合、この丘は、少し東にずれていて、回り道になります。

従って、浅井・朝倉軍はその丘を横目に見ながら、低い畑地に前進基地の本陣を置き、姉川合戦を戦うことになります。

この丘は、ジャンボ滑り台があるなど「おかやま児童公園」として活用されていましたが、昭和50年代の初めに取り崩されその跡地に、淺井町農協の施設が建設され現在に至っています。

タイトルに、ご不満は、ごもっともです。正確には「姉川合戦戦場の近くにあった丘が消えた」と、すべきです。この丘の土砂は埋め立てに好適ということで、売り出され我が家の縁の下にもおさまっています。



大依山砦は古墳の再利用?

テーマ:姉川合戦

当淺井歴史民俗資料館の裏山は大依山といい、浅井朝倉軍と織田徳川軍が戦った姉川合戦の前夜、浅井朝倉軍が陣を敷いた処です。

これは、信長公記に「朝倉孫三郎八千ばかりにて、大谷(小谷)の東をより山(大依山)と申し候て東西へ長き山あり、彼の山に陣取るなり。」とある山です。
大依山
長浜城の湖北学講座第1回で、この大依山砦をテーマに持たれました。

前半は、「span style="font-weight:bold;">大依山陣の会」会長吉川富雄氏が、映像をもとに会の運営やこの地域に残る伝承などを具体的に説明されました。後半は、前長浜城館長中井均氏が「野瀬倉山古墳群と大依山砦」を演題に講演されました。

東西に連なる大依山から南北に岩崎山が突き出ていますが、浅井軍の布陣場所は信長公記には、書かれていません。しかし、現地に立てば、この岩崎山が浅井軍の陣地と考えられますと講師先生。「文書にはないことを押さえた上であれば、歴史です。」との話、妙に納得しました。姉川対岸に陣を敷いた織田徳川軍を見張り、戦術を考えるべき浅井軍の占める位置は、ここ以外にはないと思われます。

また、浅井軍が陣を敷いたこの岩崎山は尾根に、かなり大きな前方後円墳をはじめ数個の円墳が連なっており、その部分が幾分広い平地となっています。ここで、4日間陣を置いたとなると、その古墳の上で起居していたことになります。
岩崎山
しかし、ここは極めて緊急の応戦先端基地であり、事前に準備したわけではなく、古墳群を砦に造り直しているわけでもありません。たまたま、登ったら平地もあって好都合だったといったところでしょうか。

各地には、古墳を改造して砦に活用しているケースもあり、今後の研究課題として面白いテーマと捉えておられる雰囲気でした。

古代の古墳と戦国時代の砦、城は似てるという視点も面白く思いました。発掘しなくても、文書を探らなくても、見たら分かる点、村々が見える場所、村々から見える場所、目立つところに立地している点など・・・・・・・。

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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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