浅井長政寄進の刀と太刀、小谷城脇門の扉、血痕付きの雑兵の帷子等本物を展示、3D 的な映像シアターで姉川合戦を再現、江誕生・落城・脱出場面をジオラマで表現するなど、日本宝くじ協会の資金提供を受け、全面的改装のなった「浅井歴史民俗資料館」へお越しください。

伊部本陣に無い真ん中の川

テーマ:江戸時代
あちこちの宿場町の古図や写真を見ると、街道の真ん中に川が流れています。
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。

木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。

その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。

ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。

江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。

答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。

この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。

街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。

ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。

写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供)  下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です

コメント

  1. 2012/11/27 19:15
    「木之本はこれを復活したら、わんさと観光客が訪れるよ」と木之本の友人にけしかけてるんですけど(笑)
  2. 2012/11/27 19:45
    洪水の関係で人工的に川を6ヶ所作ったと考えるのは間違いでしょうか?川幅が広い様に見えました。
    足を洗ったり馬を洗ったりするのにはむかない流れの速さ
    があったり・・・(素人考えですが!)
  3. SirMurai
    2012/11/28 09:46
    油甚さんへ
    いいと思いますね。お店にお客さんは来なくなると思いますけど。

    亀仙人さんへ
    いやですね。せっかく、いい考えが浮かんだと、一人で喜んでいたのに・・・。
    というのは、ウソです。この川の件は、伊部本陣現代当主のH先生からの受け売りなんですよ。(威張って書いて、すみません。)

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