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ポツンと神社が・・・

テーマ:淺井三代
虎御前山東麓の大洞村を探していたときのことです。

ふつう、村の氏神さんや郷社は、どこかの集落の中か、近くに鎮座していることが多いのですが、その神社は広い田んぼの中にポツンとありました。

「一体どこの・・・?」疑問に思い近づいてゆきました。「王内儀神社」とありました。不思議な社号ですが、主神が「神功皇后」と聞いて納得しました。銘板には、「この地域はいつも田川の洪水に悩まされ、しかも大きな沼地となっており人々が沼へ引き込まれ、困窮していた。それを見た、神功皇后が哀れに思い救ってくださったので一社を建立した。」と、ありました。

田川」の土手下で、「錦織荘」(難波・錦織・酢・田・大寺・月ヶ瀬・唐l国)の最上流部に、この神社が鎮座していることに興味をもちました。

「田川カルバート」建設の機運がわきおこる地域、錦織荘にとって洪水が鎮まることは最大の願いごとで、その祈りを捧げる地として、村から離れた荘へ川が流れ込む地点に、この神社を建立した悲しいまでも必死な当時の村人の気持ちが伝わってきます。

なお、この神社については、浅井亮政も「誠尽くすなら霊験は忽ち現れ、神威を犯すなら忽ち罰があたり、崇拝すべきである。」と、書き残したという記録があるそうです。

写真 上 田んぼの中に見える「王内儀神社」、背後の土手は「田川」、山は「虎御前山」  下 境内風景








新蔵品の特別展示です

テーマ:淺井三代
この度、長浜城歴史博物館が新しく手にいれた浅井長政関連史料」が、当館で初公開されます。

この文書「浅井長政書状」は、姉川合戦の翌年の5月5日、長政が家臣の阿閉甲斐守に対して発した書状です。内容は、子息五郎右衛門を初め家臣が討ち死にしたことについて慰め、今後織田信長との戦いが収束した段階で、恩賞等を与えるとした感状です。さらに、長政は、子息が討ち死にした関係で、阿閉家の跡目をしっかり立てるべきことを助言しています。

この文書は、浅井長政が姉川合戦について触れた、現存する唯一のものといえます。

特筆すべきことは、長政が姉川合戦のことを「辰鼻表合戦」と呼び、「姉川合戦」と書いてないところです。「姉川合戦」は、後の徳川幕府によって権現様のご威光をたかめる(浅井応援団としては、秀忠夫人の江の親元も美化したかった)ため、かなり誇張されたものとの推論の根拠の一つと考えることも出来ます。

なお、この宛先の阿閉甲斐守が、山本山を守り寝返った阿閉貞征とどういう関係にあったのかは、現段階では分かっていないそうです。

どこかの古物商から手に入ったそうですが、お値段は近く記者発表されるとか・・・、お楽しみに。

写真  今回、初お目見えとなった「浅井長政書状」

浅井長政は卑怯者?

テーマ:淺井三代
当館、郷土学習館のプロローグビデオ室の映像は、浅井三代の成立から姉川の合戦に至る経過が、8分間で分かるよう構成されています。

ナレーターの声に聞き覚えがあると思ったら、元NHKのアナウンサー宮本さんが担当しています。

この映像で強調しているのは、浅井長政が義の人であり、家臣との絆も磐石であったということです。私たちも、子どもの頃から、浅井長政は、信長と戦ったら負けることはわかっていたけど、朝倉氏への恩義を大切にして戦い散った。」と聞き、「ほんで、おまんらも義理や恩を大事にせなあかん!」等と言われて育ってきました。

当館、「群雄割拠の時代~長政時代の大名勢力図」は、この「長政は義の人」「恩を大事にする人」論に、いささかの反発、批判、疑問を呈しているようにも見て取れます。

この図の作成意図は、「元亀争乱の時代」と呼ばれるこの時期の織田信長を取り囲む、いわば「反信長包囲網」の強力さを示しているものと思われます。

あっちでも、こっちでも、敵と戦わなければならなかったこの時期の信長は、まさに危急存亡の危機のさ中にいたと言わざるを得ません。

この図で、信長を取り囲んでいるのは、朝倉義景、浅井長政、比叡山、足利義昭、本願寺、比叡山、三好兄弟、武田信玄と多彩な顔ぶれです。

この状況で、浅井長政が反信長で戦った理由を、朝倉氏への恩義だけで解釈するのは無理があるように思います。「ひょっとしたら、ひょっとせんでも勝てる!」これが、長政の本心と考えることもできます。

でも、そうすると、「義理」「恩義」を大事にと育ってきた私たち浅井の少年たちは何だったのかということになり、この説を高らかに唱えることは差し控えたいと思います。





家臣垣見氏の屋敷図から

テーマ:淺井三代
今回の展示替えで、文化四年(1807)に描かれた長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」がお目見えいたしました。

「垣見助左衛門」は、浅井長政から小谷落城を目前にして、感状をもらった人物と同姓同名であり、おそらく、代々その名を継承して来たもので、垣見家は浅井家滅亡後、この時点で234年続いて来ていることになります。
のみならず、現在も土地を相続し生業を立てられており、実に今年まで439年にわたり、連綿として「垣見家」は続いてきているのです。

その屋敷図は、なかなか見ごたえのあるものです。

地図には、宮川邑とあり、現在の宮司町であり、地図の右上は「(宮川)陣屋」に接していることになっており、陣屋跡が現在の「日枝神社」境内に比定されることから、その場所を特定することができます。

宮司町の総持寺の信号の1つ東の信号を南へ入ったところに、日枝神社がありますが、その道路をはさんだ西側一帯と考えられます。現に垣見医院があり、広い土地を所有しておられます。

この地図の特筆すべきことは、母屋、長屋門、酒蔵などの建築物の詳細な間取り図、泉水などを中心としたかなり立派な庭園、畑地などの土地利用の様子などが詳細に描かれていることです。

右上、陣屋に接する所には、陣屋隠居屋敷貸地とあり、公儀へ土地を貸し付けていたことも読み取れます。

長屋門の前に、若干の広場が有ること、川の水を引き入れて利用する井戸があること、周囲には4間半幅の薮が巡らしてあったことなどが描かれています。

現在展示中の、黒漆塗紺糸威胴丸(ヨロイ)、頭形兜(カブト)、籠手(コテ)などをはじめとする膨大な宝物は、どこにしまってあったのか、土蔵などもなく、不明です。

当館職員T君が地図や現地を確認してくれましたが、知らなかったのは私たちだけだったのかもしれません。

絵図 長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」

長政の垣見氏への感状

テーマ:淺井三代
今年度、新設された映像室のプロローグビデオで紹介されているものの中に、浅井長政が発した「感状」があります。

籠城の最後の最後まで、家臣として誠実に仲勲に励んだことに対する、感謝状ともいえるものです。浅井長政は、小谷落城を前に何通かの感状を主だった家臣に手渡しています。
最後の「感状」として有名なものに、8月29日の日付のある片桐直貞へのものがあります。

今回の展示替えでは、「垣見助左衛門」に対する「感状」が展示されています。長政自決の12日前の日付になっています。

ビデオでは、深く結びあった主従の絆を示すもので、その後、当家に大事に伝えられて来ているのは・・・という流れになっていますが、普通には、最後まで仕えたことへの感謝とともに、それだけの立派な人物なので是非、家臣として雇ってやって欲しいという新しい主君への就職依頼状であったと考えられています。

「垣見家」が、様々な時代をくぐり抜け連綿と現代にも、その勢いを持続しておられるのも、こうした「感状」の、或いは「感状」を拝領できる立派なDNAを有しておられたからだとはいえないでしょうか。

写真 垣見助左衛門宛の浅井長政感状
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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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