浅井長政寄進の刀と太刀、小谷城脇門の扉、血痕付きの雑兵の帷子等本物を展示、3D 的な映像シアターで姉川合戦を再現、江誕生・落城・脱出場面をジオラマで表現するなど、日本宝くじ協会の資金提供を受け、全面的改装のなった「浅井歴史民俗資料館」へお越しください。
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井伊直弼が虎姫へやって来た!

テーマ:江戸時代
私たちの田根荘を源流とする「田川」(過日、砂山として紹介した川です。)は、江戸時代琵琶湖の船が虎御前山の麓の丸山港まで登って来るという川でした。その「田川」は、虎姫学区で「高時川」の下をくぐっています。

これを、「田川カルバート」といい、そのハイカラな名前からしても、本格的な工事は明治中頃滋賀県がお雇い外国人技師を使い建設したものです。

当初、「田川」は「高時川」に合流していたのですが、「高時川」の川底は年々上昇し、天井川の様相を呈し、「田川」の水がうまく流れ込まず、少し雨が降れば付近で溢れ出し、田んぼはもちろんのこと、近くを通る「北国街道」も水没してしまうという有様でした。大名行列なども、船や筏を利用することもあったといいます。

この水を吐く方法として、この川の下を川がくぐるというアイディアが生まれ、江戸時代から地域の人々の悲願として訴えられ、様々な曲折を経て、挑戦し続けられてきました。

嘉永3年(1850)、虎姫4カ村は領主に願い出、下流の庄屋に打診するところからスタートしました。しかし、容易に進む話ではありません。

安政2年(1855)、4カ村が大津役所宛に嘆願書を出しています。
その一節に「拾ヶ年之内七八ヶ年ハ水腐、(収穫)皆無ニ・・・・・」、「去ル子年井伊掃部頭様御順在之儀有之其筋前段村々土地柄見分之上御慈悲之思召ヲ以右悪水引取方御配慮彼成下・・・・・・。」と、あります。

嘉永5年(1852)「子年」に井伊直弼が情況検分のために來村していたことが分かります。
万延元年(1860)井伊大老が「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・・・・・。

文久2年(1862)工事完成、明治3年改修嘆願書、明治13年御雇外人技師調査明治18年改修竣工、明治25年改修工事竣工、昭和4年、昭和31年、昭和36年改修、昭和41年鉄筋コンクリート製2連カルバート竣工

写真  「田川カルバート」の現在 上流虎姫学区側から  滋賀県HPより

五先賢海北友松(ゆうしょう)の友情

テーマ:戦国時代
この秋、小堀遠州四酔会と田根郷土史研究会の共催で「五先賢を京都に探る旅」が企画されました。

「湖山」に関わって「妙心寺」、「遠州」に関わって「金地院」と巡り、最後は「海北友松」の菩提所である「真如堂」を訪れました。

「友松」が、浅井家の家臣「海北善右衛門綱親」の五男で、父の戦死後唯一仏門に入り生き延び、画才を認められ狩野派に学んだことは有名です。今回の旅でも、あちこちで友松の作品を目にし、さすが武門の血を引く友松ならではの筆の跡を確認することができました。

何よりも、興味深かったことは、親交のあった明智光秀の重臣「斎藤利三」の墓と「海北友松」の墓が、ぴったりと隣り合わせに建っていたことでした。

明智光秀の謀反により、親友であった「斎藤利三」が本能寺跡で、その首をさらされていました。それを知った海北友松は、その首を見張りの武士に槍を突きつけ奪い去ったと伝わっています。

この時、長陽坊長盛という仲間の僧侶が大きな声で読経し、注意を逸らしたともいわれ、その僧が住職を務める真如堂に葬ったのです。友松は、自分が死んだらこのそばに葬ってくれるよう遺言し、この写真の通りになったというお話でした。

画家とはいえ、さすが武士の流れを汲む友松らしい武勇伝と聞かせてもらった次第です。

写真 京都真如堂にある二人の墓、手前が「斎藤利三」、奥が「海北友松」の墓です。妙な写真ですみません。 

漆黒の闇の中を歩む

テーマ:あれこれ
全国各地に、戒壇巡りという寺院の本堂の地下を巡る信仰があります。元善光寺、祖父江善光寺、谷汲さん、善通寺などなど枚挙にいとまがありません。

地下通路の長さ、幅、暗さなども、いろいろで、かなり明るい感じの所もあります。

過日参拝した長野の善光寺は、さすが本格派、最初の階段を下るとすぐそこから、全く何も見えない暗闇の世界が続きます。しかも、長いのです。一瞬、抜け出せなかったらという思いがよぎるような長さです。

地下中央に、本尊の秘仏の阿弥陀如来に直結しているという錠まいがあって、それを探り当てガチャガチャ鳴らすと極楽へ行けるといわれています。

今回は、何人かでわいわいがやがや言いながら巡りましたが、前回は私たち夫婦だけでした。漆黒の世界で、誰か手を握っていてくれる人が一人いる幸せを噛み締めながの戒壇巡りだったことを思い出します。

しかし、人生の最後は、独りでこの暗闇を歩んでゆかなければならないのかなと、ふと思ったことでした。

写真 長野市善光寺本堂

早いもん勝ち

テーマ:戦国時代
決定が遅れていて、もしかすると打ち切りかと噂されていた、再来年のNHK大河ドラマのテーマが決まりました。

三成か、光秀かとも言われましたが、なんと、「軍師官兵衛」秀吉の参謀役として全国統一に大きな役割を果たした黒田孝高(よしたか)、黒田如水です。

その発表の直後に、早速、写真のようなのぼり旗が当館にも届けられました。華やかな右側の大河博のものと違って、白黒の簡素なものですが、言いたいことが直截的に書かれています。

軍師官兵衛の黒田家発祥の地としての近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町黒田)にあやかり、大きくこの地域を、もう一度売り込もうとする意図ありありです

昨年の大河ドラマ「姫たちの戦国ー江たち三姉妹」関連で130万人もの来場者を得て、今年、市長の肝いりで「二匹目のドジョウ」を捕まえんとしましたが、残念ながら思ったほど獲れませんでした。

そこへ、今回の話です。がっかりしていた長浜が飛びつかないはずはありません。「三匹目のドジョウ」捕獲作戦の開始です。

皮肉っぽく書いていますが、当館こそ、それに便乗、「戦国大河ふるさと博」フィナーレイベントとして、NHKチーフプロデューサーを迎え「戦国武将と軍師官兵衛」と題する講演会を開催することになっています。

この黒田出身説も、「寛永諸家系図伝」には書かれているものの、その後の文書にはなく、疑問視されてもいます。旧長浜市の西黒田学区も、名乗りをあげるとか、賑やかになりそうです。

写真 当館に立てられた「のぼり旗」、中央奥は郷土学習用「あずまや」建設工事の様子です。

伊部本陣に無い真ん中の川

テーマ:江戸時代
あちこちの宿場町の古図や写真を見ると、街道の真ん中に川が流れています。
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。

木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。

その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。

ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。

江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。

答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。

この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。

街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。

ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。

写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供)  下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です
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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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