浅井長政寄進の刀と太刀、小谷城脇門の扉、血痕付きの雑兵の帷子等本物を展示、3D 的な映像シアターで姉川合戦を再現、江誕生・落城・脱出場面をジオラマで表現するなど、日本宝くじ協会の資金提供を受け、全面的改装のなった「浅井歴史民俗資料館」へお越しください。
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浅井長政は卑怯者?

テーマ:淺井三代
当館、郷土学習館のプロローグビデオ室の映像は、浅井三代の成立から姉川の合戦に至る経過が、8分間で分かるよう構成されています。

ナレーターの声に聞き覚えがあると思ったら、元NHKのアナウンサー宮本さんが担当しています。

この映像で強調しているのは、浅井長政が義の人であり、家臣との絆も磐石であったということです。私たちも、子どもの頃から、浅井長政は、信長と戦ったら負けることはわかっていたけど、朝倉氏への恩義を大切にして戦い散った。」と聞き、「ほんで、おまんらも義理や恩を大事にせなあかん!」等と言われて育ってきました。

当館、「群雄割拠の時代~長政時代の大名勢力図」は、この「長政は義の人」「恩を大事にする人」論に、いささかの反発、批判、疑問を呈しているようにも見て取れます。

この図の作成意図は、「元亀争乱の時代」と呼ばれるこの時期の織田信長を取り囲む、いわば「反信長包囲網」の強力さを示しているものと思われます。

あっちでも、こっちでも、敵と戦わなければならなかったこの時期の信長は、まさに危急存亡の危機のさ中にいたと言わざるを得ません。

この図で、信長を取り囲んでいるのは、朝倉義景、浅井長政、比叡山、足利義昭、本願寺、比叡山、三好兄弟、武田信玄と多彩な顔ぶれです。

この状況で、浅井長政が反信長で戦った理由を、朝倉氏への恩義だけで解釈するのは無理があるように思います。「ひょっとしたら、ひょっとせんでも勝てる!」これが、長政の本心と考えることもできます。

でも、そうすると、「義理」「恩義」を大事にと育ってきた私たち浅井の少年たちは何だったのかということになり、この説を高らかに唱えることは差し控えたいと思います。





駅前の鍾秀館ビルが消えた!

テーマ:あれこれ
鍾秀館(しょうしゅうかん)、正式には旧鍾秀館は、駅前通り駅前平和堂信号の東南にある鉄筋コンクリート造の3階建てビルです。

長く、JA本部事務所として使われていましたが、もともとは下郷共済会によって建設されたものです。そもそも、この下郷共済会は、長浜で多くの会社を経営する実業家下郷伝平氏が設立した財団です。様々な社会貢献を目的にし、その中に社会教育一般があり、文庫、運動場、美術館(博物館)の建設計画もあったといいます。

大正4年にモダンな洋風建築の図書館(現在の滋賀銀行駅前支店、その直前は長浜東映映画館)を、大正6年には現在の長浜幼稚園の所に「長陽園」という体育用具を揃えた運動場を開設し子どもたちに提供したそうです。

そして、大正11年、この博物館「鍾秀館」を建設、長浜の人々や児童にかけがえのない普段接することのできない美術品にふれる場を提供しました。鍾は、鐘でなく集めるの意で、秀でたものを集めた館を意味します。

今から、100年も前に、軟弱な行財政力の国や地方で、こうした企業人の心意気による取り組みのあったことを思うと、感慨深いものがあります。「三方よし」の近江商人の精神の現れと言っていいのかもしれません。

オープンの挨拶には、いずれは行政の手で、こうした施設が・・・云々と、長浜城歴史博物館の建設を示唆するような部分もあります。

時代の大きなうねりの中で、所有者や利用目的も変わり、今度は、ビルそのものが解体され近くのコンビニの駐車場として、利用されることになったのです。

昨日、車の停められた跡地を目にし、言い知れぬ思いで通り過ぎました。

写真  上 旧鍾秀館全景   下 内部階段部分から3階を見上げる 

北国脇往還を行く

テーマ:江戸時代
当館、今年度の「ふるさと歴史探訪」は、「北国脇往還を歩く」です。すでにご案内のとおり、来る、10月27日(土)に実施されます。

これは、企画展「北国脇往還と参勤交代」開催に合わせての企画です。また、関連行事としては、11月2日(金)に歴史講座4回目として、「北国脇往還と参勤交代」と題する講演会も予定されています。講師は、元長浜城歴史博物館長江龍喜之氏です。

さて、この歴史探訪ですが、身近な所で北国脇往還の名残の比較的多く残る地域を歩くことになっています。案内人は、お馴染みの長浜城歴史博物館の太田浩司先生です。

コースは、かつての「江ドラマ館」のあった「あざいおみやげ館」を10時に出発、八島町⇒尊勝寺町⇒山ノ前町⇒伊部町(12時頃、伊部町公会堂で昼食)⇒郡上町⇒丁野町⇒馬上町で、全行程約11キロメートル、14時頃終了の予定です。

参加費は、一般500円、あざい歴史の会会員200円で、申し込みが必要です。

どんな天気になるか分かりませんが、爽やかな秋空の下、太田先生の名調子に耳を傾けながら、秋の湖北路の風情を満喫していただければと思っています。

なお、館内には、一昨日から、伊吹山文化資料館制作の「立体模型北国脇往還」がお目見えしました。湖北の戦国史の舞台が一望できる、なかなか見ごたえのある力作で、こちらの方も是非ご堪能ください。

写真 今回お目見えした立体模型「北国脇往還」全景

琵琶湖のヨシ、青森のヨシ

テーマ:あれこれ
只今、当館「七りん館」のよし屋根の葺き替え工事が進行中です。
作業現場等の画像は、詳細にお二人の女性レポーター(サラダ記念日さん・お市さん)によって報告されていますので、そちらに譲ります。

数百万円という膨大な経費ですが、昨年の大河博の収入が予想外にあったためか、捻出していただくことができました。

ただし、葺き替えではなく、さし替え?工事というのでしょうか、古くなったヨシを叩いて表面を剥ぎ落し、その間に新しいヨシを差し込むという作業です。勿論、棟瓦のように、差し替えで済まないところは、全面的にやり変えられます。

当初、葺き替えという言葉が独り歩きしていたものですから、マダラ模様の屋根が出現すると、資料館スズメはピーチクパーチクと、かまびすしいことです。

それはともかく、産○新聞の記者○○さんが、工事関係者から聞いたこととして、次のような話をしてくれました。

滋賀で屋根を葺くのなら、琵琶湖のヨシを使うのが常識だと誰もが思います。ところが、違うというのです。青森県などのヨシを主として使うといいます。

その理由は、写真を見てわかるように、琵琶湖のヨシは見るからに太く、青森県のものは、さすが寒い厳しい環境で育つだけあって、細いのです

ぬくぬく育った琵琶湖のヨシだけでは十分でなく、ぎっしり詰まる青森産を使うとのことでした。

スズメの中には、太い琵琶湖のヨシの方が肉厚で強いとか、琵琶湖のヨシは生産する人がいないからだとか、講師先生も○○家の修復には琵琶湖のヨシだけで作業が行われた・・・などという話もあり、真相は闇の中です。

ただ、当記者さんに、「流石、新聞記者さん、足で稼ぎますね。」と言いますと、「流石、うまい!」と返されましたが、頭の固いこちらは意味がわかりませんでした。

「足とアシ」を懸けたものと思っていただいたことがわかったのは、一呼吸おいた後でした。

写真 上 「七りん館」ヨシ屋根修復事業風景   下 上の太い方が「琵琶湖のヨシ」、下の細いものが「青森産のヨシ」

小谷山炎上

テーマ:あれこれ
戦国期、小谷落城の際に火災は発生していません。

長政に焼き払う意思がなかったことや、秀吉もこの城を拝領することが予想され、無駄な放火を避けたのかもしれません。とにかく、発掘調査では灰の欠片も見つかっていません。

NHK大河には、小谷落城シーンが14回放映されたそうですが、一度として火災の発生しなかった回はありません
今回も、監修の小和田さんも太田さんも声を揃えて文句を言ったそうですが、しっかり燃えていました。お二人は、痩せ我慢で、あれは本丸が燃えたのでなく、櫓の一つが焼けたんです、なんて言っています。

当館の展示も、猛烈に炎上していましたので、煙だけに修正してもらったそうです。いずれにしろ、NHKは火を付けるのが好きみたいですと説明することにしています。

でも、私は小谷山が燃えるのを見たのです。小谷城でなく小谷山ですから、念のため・・・。
私が、まだ母の背に負われている頃でした。サイレンが鳴り仕切る中、我が家から、100mも行かない場所からその
火事の様子が見て取れました。

ただ、サイレンの音や異常な人々の動きにでしょうか、私はワーーワーー泣いていた記憶しかありません。長く焼け跡が三角形にその名残を残していました。後、高校時代に遠足で登った時には、背の低い木々が育っていたことを思い出します。

今思うと、その場所は、本丸を東へ下がった麓から赤尾屋敷にかけての場所であったようです。

写真 上 小谷山を東から望む。  下 火災の発生した場所を示す。






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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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