1  |  2  |  3  |  4    次>    

NHK様のご威光

テーマ:小谷城
これは、事実かどうか、知りません
ただ、小谷城の語り部の方のお話しにあったことで、責任を私に取れと言われても応じかねますので、念のため・・・。

私も感じていたことでしたが、小谷城のドライブウエィは開通当初、どこも見晴らしがきき、遠くまでの眺望を楽しむことが出来ました。

最近では、樹木が茂り、殆ど眺望がきかなくなりました。勿論、桜馬場や大広間跡は、以前からそんなに見晴らしは良くありませんでした。

観光客の増加もあり、近年、小谷城址保勝会などが、県に対して「樹木の伐採許可」を強く要望して来ました。でも、過去の文化財保護に関する地元の対応もあり、一切許されないまま日が過ぎて来ていました。

この状況は、昨年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」制作決定で、がらっと大きく変わったといいます。

どんどん、伐ってもよいとのお達しで、かなり大規模に伐採され、さすがNHK様のご威光の大きさを感じています・・・とのお話でした。案内中、3,4度この話が出てきて、よっぽど、この方は身にしみて感じておられるんだなあと、感じ取った次第です。

でも、そのお蔭で、時任三郎長政と鈴木保奈美お市が、琵琶湖を見て語るシーンが撮影でき、その場所が「小谷城新名所」となったのです。(お輿入れは、清水谷で、あんな山ヘは登ってないですが・・・。)

何よりも、この伐採で、伊吹山上平寺城、関ヶ原、横山城、遠くに佐和山城、安土山、八幡山、比叡山、湖西の山々までを一望の下に望むことが出来、改めて、この城の戦国時代における戦略上の位置の重要さを再確認出来たことは大きな成果であったと断言することが出来ます。

写真 眼下に虎御前山、清水谷、琵琶湖の風景がひろがります。

浅井の里の落とし物

テーマ:小谷城
昨日、こんな素晴らしい所で
こんな美味しいものを腹一杯いただいて
こんな所へ帰ってきましたら、(読めますか、小谷城跡・須賀谷温泉・孤篷庵・能楽資料館と書いています。残念ながら、当館は有名すぎて書いていません。ここが、かろうじて、戦国つながりですこんな物が、我が家近くにありました。)今朝、我が家の孫娘が、ジーッと眺めながら登校しています。可愛いですね。

何だと、思われますか?拡大しますと、こんな物です。
親切な人が、道路のど真ん中に落ちていたので、こぼれた物を掃き集め、この場所に移し、こんな張り紙をしたそうです。近くの駐在さんもやって来たとのことです。
しばらくしたら、落とし主が現れて、めでたし、めでたしとなったとさ・・・・・・。
のんびりした、浅井の里の落とし物のお話しでした。

称名寺性慶が秀吉に売った恩

テーマ:小谷城
織田信長が浅井長政を攻めて来た頃、湖北十ヶ寺はまとまって浅井長政に味方して信長と戦います。

小谷落城後、信長はこの一向一揆勢力を押さえつけ、称名寺も焼き払われます。ところが力のあった称名寺の住職「性慶」(せいけい)は木下藤吉郎と仲がよかったのです。

本能寺の変が起こったとき、木下藤吉郎改め羽柴筑前守は中国地方で毛利氏と戦っていて長浜城には母親と奥方のねねさんがいました。

明智光秀の軍勢が長浜城へも攻めてくることを察知した称名寺性慶は、新しく建て直した称名寺へ二人を連れてきて隠しました。それでも見つかりそうだと、上草野の谷から岐阜へ逃げのびさせたのです。

その後、光秀を倒し天下を取った秀吉は、奥方やねねを助けた性慶に褒美として、今の称名寺屋敷など七屋敷と六十三石の領地を与えました。さらに荒木摂津守の娘を秀吉の養女にしてから、性慶に嫁がせ称名寺と秀吉は親戚関係になり、今でも称名寺は豊臣家の桐の紋が使われています。

その後、北陸から柴田勝家が大軍を率いて攻め上ってきました。性慶は岐阜を攻めている秀吉に、知らせましたので、大急ぎで秀吉軍は大垣から木之本へ引き返し、賤ヶ岳の合戦が始まるのです。こうして、次々と手柄を立てた性慶は湖北八万石を支配する代官に取り立てられます。

その頃から、称名寺は栄えに栄えて、末寺六十ヶ寺、門徒6000軒といわれる大寺になりました。

写真 現在の称名寺境内の片隅に残る石仏など

楽しい余興説、石垣山一夜城

テーマ:小谷城
九州征伐を終えた秀吉の最後の戦い、関東に君臨する北條家討伐でした。当初、当然乍ら外交手続きで屈服させる手段を、様々講じていますが不調に終わり、最後の抵抗勢力との決戦となります。東海道・中山道・越後街道の三方向から、総勢20万を超える大軍が、関東小田原を目指したのです。

秀吉にとっては、全国制覇前夜祭兼豊臣姓下賜記念関東方面慰安旅行とでもいったところでしょうか。秀吉、53歳にして、初めての余裕を持って臨める、恐らくウキウキした物見遊山的な戦いだったのではないでしょうか。

北條氏の本城である小田原城を取り囲むだけで、積極的に攻めようとせず、茶会を開き、能を演じさせ、以前取り上げたように、淀殿も迎えます。そして、最大の道楽?は、北條氏の度肝を抜くように築いた「石垣山一夜城」です。

過日の大河「江」でも、こっそり築いてきた城郭を、目隠しになっている樹木を一斉に切り倒して、忽然と出現させるというシーンを映し出していました。こんな楽しい余興、今どんな旅行に行っても誰も出来ません。さすが、太閤殿下です。

もともと、笠懸山と言われていた山が、石垣山と改められたことでも分かるとおり、関東で本格的な石垣を持つ城が築かれたのは、これが最初と言われます。北條氏の戦意を一挙に喪失させるには、誠に打って付けのアイディアといえます。

江戸城でも、山手側は石垣を築かず、大きな土手が連なっています。表側にも、堀に沿って土手があり、その上にだけ石垣を築く鉢巻石垣、土塁の下部のみに石垣を築く腰巻石垣と呼ばれる土塁があります。石材が少ない東国の特徴ともいえますが、単に石材不足というよりは、石垣を築く技術集団が関東には存在しなかったというのが、本当のところではないでしょうか。

穴太衆を初めとする近江石工集団は、恐らく、大陸からの技術を伝えた渡来人の流れを汲む人たちであったと思われます。古墳の築造、都の造営、寺院の建設、城郭の建設等々、時代の要請を受け、より技術を高め、夥しい数の石工集団として成長し、関西各地で活躍していたものと思われます。そうした古代からの技術力の継承のない関東の悲しさを露呈しているのが江戸城の土居と言いたいのです。

彦根城の鉢巻石垣や腰巻き石垣について、皇居同様、品のいい構造で・・・・・と、聞いたことがありますが、井伊家が関東系だったというだけの話だったんですね。

写真 上=石垣山城 井戸曲輪周辺の石組み   下=皇居鉢巻石垣と腰巻き石垣を併用した土居

小谷城大広間は宴会場?

テーマ:小谷城
いつ、何処で、手に入れたのか不明ですが、写真のような昭和40年代の「小谷城大広間発掘調査」のメモが見つかりました。
小谷城出土品分布図
まず、発掘調査に当たって、大広間跡を、縦(123・・)、横(abc・・)4mの方眼状に158の調査区画に分けています。それぞれの区画における出土品を調べるというものです。

この用紙は、一体なんでしょうか。大広間跡の地図に、区画とその整理番号のみ(本格的に)印刷されています。おそらく、調査団用の調査結果の記入用紙だと思われます。

この手書きで書かれている調査用紙は、調査団がそれぞれの場所のカワラケ出土数を一枚の紙に最終的に集計したものと思われます。

この時の全発掘品の96%がカワラケ及びその破片で、その数は32,139個であったという調査結果をどう読み解くのでしょうか。

ある方は、この結果から、「大広間では盛んに饗宴が催されていたことになり、この大広間は奥となる私邸部分であり、清水谷の御屋敷が表となる公邸として用いられていた。従って、お市や三姉妹もここで生活していたと考えられる。」等と、述べておられました。

逆ではないでしょうか。大広間では、出陣の際、全ての武士団を各地から集め士気を鼓舞するための神前での儀式が行われ、気勢を上げるため御神酒が振る舞われたと思うんですが。また、凱旋したときも、ここで酒宴を開きねぎらったのではないかと考えられます。従って、この大広間こそ公的な場所で、戦時体制下に利用され、日常的には清水谷の御屋敷や武家屋敷で生活していたと考えるべきだと考えます。

日常生活をしていれば、その他の日常食器が、もっと出土してもいいはずです。信長との最終決戦を前にした、籠城期間中の食器等は、地表部分にあったと思われ、秀吉入場の際、清掃処分されたことでしょう。地中から出土した物が殆ど酒器であるということは、築城後、五十年間の戦いの歴史がその出土品に凝縮されていると考えたいのです。

この資料の出土品の散らばり状態、刀のつば321コの分布状況から、この大広間の建築物、及びその間取りなどを想像することも楽しいことです。

1  |  2  |  3  |  4    次>    

プロフィール

SirMurai

SirMurai

浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

ホームページ

このブログの読者

最近のトラックバック