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 お市はお茶を点てていた

テーマ:お市
茶道は、室町中期に成立し、隆盛を極めるのは、千利休などで代表される戦国期であると思われます。利休が切腹を命じられるのが、1591年ですから、お市たちが小谷で暮らしたのは、その20年ほど前ということになります。

こんな時期に、ちっぽけな田舎大名の小谷城大広間跡の一角から、中国伝来と思われる白磁などの茶器の破片が出土しています。

そんな早くから」と言いたいところですが、お市が信長の妹であると考えれば、その疑問は氷解します。先進的な、珍しがり屋さんの信長は、おそらく最先端を行く茶道具を集め、茶道を嗜んでいたと思われます。

写真の通り、白磁の破片は、ほんの小さなものですが、他にも、備前焼、信楽焼などの破片もあり、大広間の一角に設えられた茶室で、静かに長政とお茶を嗜んでいたと考えたいのです。

ただ、問題は、大広間などの山上で暮らしたのが、信長軍に囲まれた最後の1年だとすると、お茶どころの騒ぎでなく、嫁入り道具に持ってきた茶道具一色を荷物と一緒に運び上げ、落城の際ぶっ壊れたと考える方が真相に近いのかも知れません。

この資料解説には、「浅井家の財力を示す・・・・」云々と学芸員さんは書かれていますが、私はあくまでも「嫁入り道具に忍び込ませてあった茶道具」説を、何の根拠もなくとなえたいのです。

写真 当館1階展示室 小谷城出土品の数々

留守にした関係で、公開日を指定しておいたのですが、ココログはアップされていましたが、コブログの方は公開されていず、申し訳けありません。一日遅れとなりました。

お市さん所持の扇子

テーマ:お市
当館で、唯一、「お市」そのものにかかる展示物といえば、「伝お市所持の扇子」です。これは、改装前から、目玉展示品として知られてきました。

時には、これを目当てにお越しいただく方もおられます。

写真でも、お分かりのように、虫が食ったか、使い古されたか、自然な古び方は、時代を感じさせるに十分の品です。これまた、古風な木箱に入っており、「お市の方所持の扇子」と明瞭に箱書きされています。

扇面には、浅井を意味する「井筒・井桁」、その中に「三盛亀甲花菱」と呼ばれる浅井の家紋の「花菱」が一個大きく描かれています。

長浜城のある学芸員さんは、中央の花菱は、お市の親元織田家の家紋の木瓜(もっこう)じゃないかとのご指摘でしたが、織田木瓜は五瓜で、無理があるように思います。

浅井の地のある旧家に所蔵されていたそうですが、いまは浅井のある方の所有物になっています。

ただ、わたしが、このブログに登場させるが遅くなった理由は、デザインと紙質、大きさです。

これ以上を、申し上げるのは差し控えさせていただき、ぜひ、ご来館の上、ご自身でご判断いただければさいわいと考えております。

お市たちがやって来た祭

テーマ:お市
資料館へお越しのお客様から、「大河ドラマで、長政とお市が見に行ったというお祭りのある神社はどこでしたか?この辺りですか?」と、尋ねられました。

たしかに、そんなシーンがあり、どこか小谷山麓にそんな言い伝えのある神社があるものと思い込んでいました。だから、「いいえ、こちらは小谷城の東山麓で、おそらく西麓の村だと思います。」と、堂々と答えましたが、少々心配で、スタッフに話すと誰も知らず、メンバーの一人が調べてくれました。

結果は何と、地域に言い伝えがあるのではなく、NHKのプロデューサーが、たまたま神社の灯明を見に行ったとき、その美しい光景に見とれて、こんな美しい祭りならきっと、お市や長政も見に行ったことだろうと、脚本に加えられたということでした。

いい加減なもので、思い込みというか、さもありなんという気持ちが勝って、てっきり架空の言い伝えを作ったという次第でした。

と、書いてこのお話しは終わりになるはずでしたが、念のためネット検索しましたら、「『毎年9月に行われる灯明祭を、長政と市がお忍びで見に来ていた』という言い伝えが残っている。郡上区元自治会長でもある中山孫孝さん(69)が教えてくださった。」と、ありました。

残念ながら、このブログ記事としては、ホントと思っていた話が、プロデューサーの創作、そしていつの日にか、これが歴史の事実として伝わって行くのでは・・・・・・という方が、面白かったんですが、普通の話になってしまいました。

なかなか、思うようには行かないのが、人生です。


写真 これは、私たちの町内で8月18日に行われた灯明風景です。元亀4年(天正元年)は、8月27日の小谷総攻撃前でもあり、小谷山上から浅井長政一家は、この灯明の灯りを見つめていたかもしれません。




お市北ノ庄自決の真の理由

テーマ:お市
大河ドラマ「江」北ノ庄城落城のシーン、三姉妹を乗せた輿が門外に出たとき、派手な爆発で天守閣が消え失せます。
北ノ庄城炎上

「母上ーっ」、「母上ーっ」、「母上ーっ」、三姉妹それぞれの泣き声が、いささか辟易とするくらいの長さであったことを思い出します。
ところで、小谷城では、お市と三姉妹ともに脱出したのに、ここ北ノ庄城では、柴田勝家とともに逝く、この違いはなんでしょう。

浅井長政とは、太田参事さんの永禄4年説なら12年間
私説の 永禄6年説なら10年間
小和田さんの永禄11年説なら 5年間
              茶々5歳 初4歳 江1歳      
長政との比較的長い結婚生活ながら、三姉妹の年齢が余りにも幼く、長政のたっての願いが優先されたと考えるのが常識的と思います。育ててくれ、浅井の誇りと血をつないでくれ、菩提を弔ってくれ、この願いに応えたと考えるべきでしょう。

問題は、柴田勝家との関係です。勝家とは、閏1月を入れても9ヶ月間の結婚生活に過ぎません。茶々14歳初13歳江10歳と、三姉妹も大きく育っているから、というだけでは説明が付きません。「秀吉を嫌っていた。」説も有力ですが、辞世の句で、論ずる人がいます。

お市の辞世に、「夢路をさそう」とあり、勝家が「夢路はかなき」と答えています。二人が共通して知っている、この世にいない人のことを念頭においているといいます。

長政亡き後の世の推移を見つめたお市は、夫長政の潔い身の処し方に一種の畏敬の念も持ち、機会があれば後を追う、その機会をうかがっていた、と、考えるのは、少々飛躍し過ぎでしょうか。勝家殿には申し訳ないですが、相手は誰でもよかったのではないでしょうか。そして、勝家もそのことに理解を示していたと考えるのが私の見解です。

浅井三代記出版を可能にした背景に関して、来館者が、即座に「忠臣蔵でしょうか!」と、長政後の人々の感情を端的に表現された言葉の強さに圧倒される思いで、お市もまた長政に同様の考えを持っていたのではないかと考えた次第です。

画像 北ノ庄城炎上(歴史人2011No,1よりお借りしました)

鈴木保奈美顔のお市画像

テーマ:お市
大河「江」22週は、「父母の肖像」でした。

当館でも、あるいは当ブログでも、いつも話題にしてる「お市画像」が登場する日です。果たして、どのような演出がされるのか、固唾(かたずって、こう書くんですね)を呑んで見ていました。

鶴松誕生で、ご機嫌の良い秀吉にねだって、父母の七回忌・十七回忌(それにしても、2人はいい年に亡くなっているものです)を勤めさせてもらう・・・、そして、父母の肖像画を描かせる・・・、当館の説明通りに進行して、まずは安心、先日の福井県立美術館の先生もご覧になっていたんでしょうかね。
大河のお市画像
ところで、気になるお二人の画像ですが、なかなか出てきません。法要も、どんどん進んで行きます。お坊さんの前に、二幅の巻物がありますが、そのままが法要も終了、放送も終了かと思いきや、画像が現れました。

この部分を「佐吉の独り言」というブログに、極めて端的に記事にしておかれます。私のように、ダラダラ書かずに、俳句のような鋭い言語感覚、参りましたの一言です。ブログ文学?の新境地?いずれにしても、佐吉様に了解は得ていませんが、紹介させていただきます。



江の放送での肖像画!!!


浅井長政 時任三郎

お市 鈴木保奈美

笑ろた





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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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