それぞれの1月17日

テーマ:雑感
それからずっと、テレビの前を離れられませんでした。
信じられない光景に、トリ肌を立てながら見入っていました。

ふと、会社に連絡を入れていないことに気がつき、家から電話をしましたが繋がりません。
「公衆電話のほうが・・・」と思って、近所の公衆電話から架けると繋がりました。

当時、私の部署は JRで通勤する滋賀県在住の人が多かったため、1人しか出社していませんでした。

部署内の被害状況は、液体の入ったビンが数本倒れて実験台から落ち、割れていたそうです。
他部署や工場などでは、何トンという重さの機械が 少しずれていたりしたそうです。

その後、家に帰って またテレビに釘付け。

6時半頃に家を出て、長浜駅から米原方面への列車に乗る予定だった妹はまだ帰っていません。

両親も私も「電車は動いてないはずやのになぁ」と心配していましたが、「駅で友達としゃべってた」と言って、昼頃に帰ってきました。

父と母は、配達に行ったり、店の番をしたりと、いつもと変わらない様子でしたが、私と妹は土、日、振替休日を過ごした後の思わぬ休日にとまどいつつ、テレビの映像を食い入るように見ていました。

翌日以降、JRは新快速が間引きされていて、京都までは各駅停車のみの運行でした。

同じ会社に勤める人の両親が神戸に住んでいて、お父さんが亡くなられました。
私のもっとも身近で 地震の被害で亡くなられた唯一の人となりました。

伊丹に住む大学の先輩は、大きな被害はなかったものの、ライフラインが断たれたため、しばらくは不自由な生活を強いられたそうです。

私の勤める会社と取引のあった会社が神戸市の長田区にあったのですが、社屋の1階部分が完全につぶれてしまい、結局その地での再建をあきらめ、三重県に移転しました。

その後、新快速も 大阪行き ではありましたが運行され、私にとっては以前と同じ生活に戻ることができました。

私自身は大きな被害も受けず、生活に支障も さほどありませんでしたが、やはりこの日は 特別な忘れられない日には違いありません。

それぞれの1月17日

テーマ:雑感
今日、1月17日は 多くの人にとって『特別な日』です。

人それぞれに、記憶に残る体験だったと思います。

14年前、私は実家から通勤していました。
いつも5時半に起きて、6時過ぎに家を出て、車で米原駅に向かい、6時半過ぎの電車に乗ります。

『その瞬間』には、歯を磨いていました。
低いゴーっと言う音とともに戸がガタガタなり始めたと思ったら、ユッサユッサと大きく揺れました。
なかなか止まりません。
横にあった洗濯機に手を突いて体を支えながら、揺れがおさまるのを待ちました。

しばらくして、「また大きい揺れが来ることはないかな」と不安ながらトイレに入っていた私に、妹が、「震源は兵庫県で震度6やて!」と、わざわざ教えてくれました。

かなりの積雪が残り、凍っている中を米原駅に向かうと、米原駅の北側にある踏切手前で渋滞しています。
米原行きの電車が信号待ちで止まっているようで、踏切が閉じたままです。

Uターンして、一つ手前の小さな踏切を渡り、なんとか駅に着きました。

ホームに行くと、いつもと全く様子が違います。
もっと早い時間に出ているはずの『びわこライナー』が止まったままです。
駅を出ようとする人もいます。
ひとまず びわこライナー に乗り込み、座って待つことにしました。
この時はまだ、地震があったこと以外、どこで何が起きているのか知りませんでした。

車内で待っている間にも余震がありました。

そしてアナウンスがあり、神戸付近で脱線していて、復旧の見通しも立たないとのこと。
「もう無理やなぁ、帰ろ」と思って駅を出ると、これまた渋滞しています。
今まで一度も走ったことのない細い道を抜けて、ようやく家に帰りつくことができました。

そしてテレビで見たのは、黒煙がいくつも立ちのぼる 衝撃的な映像でした。
(続く)

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松男

長浜生まれの長浜育ち
今は京都の嵐山方面に住んでいます
中学・高校・大学は軟式テニスしてました

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