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少子高齢化

テーマ:長浜(滋賀)のこと
京都では朝方まで雨が残りましたが、出勤する頃には日も差してきたりして 午後にはすっかりいい天気になりました。

きっと湖北地方でも同様の天気だったと思います。

雨上がりの清々しい空気の中で、子供たちの熱演が続いているのではないでしょうか。

近年は役者として歌舞伎を演じる子供の確保もたいへんそうですね。

私が小学生だった頃は、1学年5クラスで1クラスが42~3人でしたので、1学年210人余りだったでしょうか。

私の1学年下は、生まれ年が丙午ということで 人数がやや少なめ、その反動で3学年下が多く、6クラスありました。

クラス名が い・ろ・は・・・でしたので、組 まであったのですが、へ組って・・・

今年度の新入生は120人足らずだそうですので、ずいぶん児童の数も減ったものです。

当時から 小学校の学区の境界がいまひとつわかっていないのですが、とりあえず翁山の伊部町や鳳凰山の祝町、青海山の北町は学区内だったと思います。

いずれも私の同級(窓)生が何人もいました。
当然曳山の舞台にも上がっていて、祭り明けに眉毛を剃り落とした顔を見て からかったりしたものでした。

高校が違うとなかなか把握しにくいのですが、 地元に残っているのは ほんの数人でしょうか。

私の実家付近を見ても、30代、40代の人が少ないのに伴って小学生などの子供も少なく 少子高齢化が進んでいますが、山組の町となると 一層深刻な問題だと思います。

商店街散策

テーマ:長浜(滋賀)のこと
実家に帰っている間、別段することもないので商店街をウロウロしていました。

まだまだ観光で来られる方は多いですね。

大通寺の山門を眺め、おおの履物店さんのところからみーな編集室を通り、油甚さんアロマ大使さんねむりはかせさんのお店、
油甚さん
曳山博物館の前をとおり、べっこうやさんぱんやさんを覗きつつ、黒壁スクエア辺りまでの間。

小一時間ぐらい、何度もぐるぐる周っていました。

ぱんやさんらしき方とは目が合ったような気もしましたが・・・

そうそう、駅から実家に向かう途中には、おやじさんのおふくろさんともすれ違いました。
私はマスクをしていたので気が付かれないようでしたが。

時間があれば車で米原、あるいは木之本方面も行きたかったのですが、タイヤ交換をして空気圧を調整に行くだけで精一杯でした。

お祭り気分

テーマ:長浜(滋賀)のこと
京都市内は桜も満開、場所によっては かなり散ってしまったところもあります。
桜

この土日は 観光客でごった返す京都を尻目に、長浜に帰省しておりました。

途中、京都駅前の市バスのターミナルはえらいことになっていました。
三十三間堂から清水寺、八坂神社を通って平安神宮方面に向かう路線の乗り場は、何百人もの大行列になっています。
後ろの方は何時になったら乗れるのやら。

長浜へ向かう新快速も京都で降りる人が多く、おかげで息子と2人 京都から座ることができました。

彦根辺りから雨が降り出し、長浜に着く頃には、本降りになってきていました。

それでもそんなに強くなかったので、駅から歩くことに。

大手通りに入ると、向こうから山(曳山)がやってくるではないですか。
『まだ祭りでもないのに・・・』(いや、山組の人にとっては始まってるのかもしれませんが)と思いながら歩いているうちに、ふと 『そういや 博物館の交代式ってのがあったような・・・』と思いだしました。

よく見ると『鳳凰山』と書いてあります。
もしかしたら と思って曳いている人を見てみると、いましたいました、同窓生の某饅頭屋。

それが過ぎると、今度は博物館から大手通りへ猩々丸が曲がろうとしています。
猩々丸
船首部分が突き出しているため、曲がりにくそうでしたが、なんとか曲がり切りました。

祭り当日はバイトなんかを雇うと聞いたことがありますが、この日の曳き手の人達 年齢層がかなり高く、『大丈夫かいな。』 と心配になりました。

しかし、予期せず山が動くのを見られて嬉しかったです。

ところで、道に貼られたこの板は何のためのものだったのでしょう?
板

豊公園の檻

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3月3日の近江毎夕新聞の記事によりますと、豊公園のシカの檻が撤去されたそうですね。

ニホンザルも3匹しかいないとか。

シカは私が小さいころからいたような気がしていたのですが、四半世紀ということは、そんなに古くからはいなかったようです。

ニホンザルは私が物心ついた時にはいました。

そう、まだ私が幼稚園にも行っていない頃だと思うのですが、当時大阪に住んでいた伯父が帰省していました。
そして、私を連れて 豊公園に行き、サルを見ていました。

伯父は、よく見えるようにと私を抱きかかえてくれました。そして、(うかつにも)私の手が檻に触れようとした時、檻の中からサルの手が伸びてきて、私の指をつかみ、口の中へ・・・

少し噛まれた程度で、大きなケガはしなかったのですが、さすがにいまだに忘れられない思い出です。

59豪雪の思い出

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先週の冷え込みから一転、こちら京都では日中10℃を超える陽気(?)となっています。

さて、ぱんやさんのブログのコメントにも書きましたが、昭和59年の豪雪と大学受験の話をしたいと思います。

とにかくよく降り、よくつもったなぁ という印象でした。

当時でいう『共通一次』の時は、困るほどではなかったですが積もっていたと思います。

しかし、2月の私立の入試がある頃は、かなりの大雪にみまわれました.

大阪にある某私立大学の入試を受けるために、同級生2人と前日から泊りがけで行くことになっていました。
1人は旧長浜市内に住む女子、もう1人は湖北町に住む男子でした。

当時、長浜駅発着の列車は1時間に1本程度でしたが、あまりの大雪のため、ダイヤも乱れていたと思います。

私の父が、車で米原駅まで送ってくれるということで、当初長浜駅で待ち合わせをする予定だった同じ市内に住む女子も途中で拾っていきました。
いつもなら20分ぐらいあれば着けるでしょうか。
でもさすがにこの時は8号線が渋滞していたため、1時間ぐらいかかりました。

湖北町の友人も、なんとか米原駅にたどり着いていました。

それと、どうやって来られたのか忘れましたが、一緒に行く女子のお父さんと米原駅でばったり出会いました。
仕事で大阪に行くということだったのですが、「じゃ 何故 娘と一緒に行こうと思わなかったんだろう?」と不思議でした。

そのお父さんは、長靴を履いておられました。
でも、長靴のまま大阪へはさすがに行けませんので、靴に履き替え、コインロッカーに預けておられました。

あまりの大雪に、対策も十分であろうこの地方の在来線も動いていませんでした。
しかし、新幹線はよくできてますね。
あのスプリンクラーはダテじゃありません。
遅れ こそあれ、しっかり走ってました。

友人のお父さんと一緒に4人で 無事に新幹線に乗り、大阪へと向かうことができました。

数十センチの積雪だったのに、彦根を過ぎると別世界だったのは言うまでもありません。

そうそう、米原駅で友人のお父さんが 私たちにステーキ弁当を買ってくださいました。
なんてリッチな気分の旅だったんでしょう。

ん? 試験の結果ですか? そのお父さんの娘のみ合格でした。(泣
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松男

長浜生まれの長浜育ち
今は京都の嵐山方面に住んでいます
中学・高校・大学は軟式テニスしてました

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