お宝
テーマ:ブログ
2009/07/31 23:32
まだ1度も他人には見せたことのないお宝(僕にとっては)がございます。
持っていることすら友達も知りません。
それは何か?
察しの付いている方もおれれるかもしれません。
それは、ギターです。
ギターの糸巻きの付いている部分ですね。ヘッドといいます。
鷲のインレイ(貝がらを埋め込んだ装飾です)がきれいです
指板にも模様があります。
僕がライブで使っているアストリアスに似ていますね。
でも格がこちらの方が上です。
カナダ製のLarrivee C-10 というギターです。
実はとても弾きにくく4弦がビビリ気味でほとんど弾いていません。
このままではかわいそうなんで、どこが悪いのか調べて
チューニングをしました。他人様のギターばかり直して自分のは中々直せません。いつも後回しです。
このギターはアストリアスより格上のくせに、音が悪いのです。
音が詰まる、前に出ない、ビビル・・・
サドルが怪しい・・・
サドルというのは、弦を止めているところにある黒い木にある白い細い棒状のものです。
これが、外した物
1弦側(一番下の細い弦)が急激に削られています。
これは、買ってきたばかりのサドル。
これの材質は牛骨。他にプラスチックや高級な物では象牙があります。タスクという人工象牙もあります。
これを加工して、ギターにセットしました。
加工は厚みやカーブ、弦の当たる位置など細かい作業が必要です
音を合わせて弾いてみると
見違える、いや聞き違えるほどのいい音!
素晴らしい!(自画自賛)
フレット音痴も直りました。
あとは弾き込んで、薄っぺらいネックと幅広指板に慣れるだけです。
いつか、ライブでご披露したいと思います。
持っていることすら友達も知りません。
それは何か?
察しの付いている方もおれれるかもしれません。
それは、ギターです。
ギターの糸巻きの付いている部分ですね。ヘッドといいます。
鷲のインレイ(貝がらを埋め込んだ装飾です)がきれいです
指板にも模様があります。
僕がライブで使っているアストリアスに似ていますね。
でも格がこちらの方が上です。
カナダ製のLarrivee C-10 というギターです。
実はとても弾きにくく4弦がビビリ気味でほとんど弾いていません。
このままではかわいそうなんで、どこが悪いのか調べて
チューニングをしました。他人様のギターばかり直して自分のは中々直せません。いつも後回しです。
このギターはアストリアスより格上のくせに、音が悪いのです。
音が詰まる、前に出ない、ビビル・・・
サドルが怪しい・・・
サドルというのは、弦を止めているところにある黒い木にある白い細い棒状のものです。
これが、外した物
1弦側(一番下の細い弦)が急激に削られています。
これは、買ってきたばかりのサドル。
これの材質は牛骨。他にプラスチックや高級な物では象牙があります。タスクという人工象牙もあります。
これを加工して、ギターにセットしました。
加工は厚みやカーブ、弦の当たる位置など細かい作業が必要です
音を合わせて弾いてみると
見違える、いや聞き違えるほどのいい音!
素晴らしい!(自画自賛)
フレット音痴も直りました。
あとは弾き込んで、薄っぺらいネックと幅広指板に慣れるだけです。
いつか、ライブでご披露したいと思います。
浅井民俗資料館 お市の里
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2009/07/31 13:21
戦争展を開催されています浅井民俗資料館へ行きました。
長浜市大依町のスポーツ公園などと一緒にございます
正面入り口です
中に入りますと、葦ふき屋根の家屋と、資料館が広がります
入って正面が、七りん館です。ここでコンサートを開いたりされます。
奥は鍛冶部屋、手前右は糸姫の館です。
移築されてきたと聞いています。
池のお庭がきれいです。手入れが行き届いています
資料館の玄関です。大きな釣り鐘が眼を引きます
中にはいると浅井長政がお出迎え
ここからは戦争展です。
陶器のアイロンが見えますね
一瞬どっきりしました
1週間の結婚生活の手記は書かれた方の嫁入り道具です。
当時の雑誌も見ることが出来ます
2回は常設展示がございます。
図書館やりっぱな野球場、陸上競技場、プール、体育館などが集まった
とても環境の良いところです。
ぜひお越し下さい。
長浜市大依町のスポーツ公園などと一緒にございます
正面入り口です
中に入りますと、葦ふき屋根の家屋と、資料館が広がります
入って正面が、七りん館です。ここでコンサートを開いたりされます。
奥は鍛冶部屋、手前右は糸姫の館です。
移築されてきたと聞いています。
池のお庭がきれいです。手入れが行き届いています
資料館の玄関です。大きな釣り鐘が眼を引きます
中にはいると浅井長政がお出迎え
ここからは戦争展です。
陶器のアイロンが見えますね
一瞬どっきりしました
1週間の結婚生活の手記は書かれた方の嫁入り道具です。
当時の雑誌も見ることが出来ます
2回は常設展示がございます。
図書館やりっぱな野球場、陸上競技場、プール、体育館などが集まった
とても環境の良いところです。
ぜひお越し下さい。
1000枚のお楽しみ券
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2009/07/30 21:25
今晩はやわた夢生小路商店街の理事会でした。
8月14日にございます盆おどり大会の最終打ち合わせです。
この会議に間に合わせてお楽しみ券を作りました
A4で印刷し、ミシン目を入れて
裁断しました
全部で1000枚です。
盆おどり大会の夜店に使えてなおかつ抽選会にエントリーできるお得な券です。
ライブでもお配りします。
8月14日にございます盆おどり大会の最終打ち合わせです。
この会議に間に合わせてお楽しみ券を作りました
A4で印刷し、ミシン目を入れて
裁断しました
全部で1000枚です。
盆おどり大会の夜店に使えてなおかつ抽選会にエントリーできるお得な券です。
ライブでもお配りします。
ピックアップ
テーマ:ブログ
2009/07/30 09:53
先日の池崎くんのライブで、ヒヤリとしたことがあります。
この写真では小さくてわかりにくいですが、ギターの音を電気的な拾うピックアップが外れそうになっていたのです。
ライブの途中で外れたら大変です。
リハの時に彼のギターを見て愕然としました。
ピックアップをガムテープで留めていたのです。彼曰く「すぐ外れます」
みると取り付けねじが2本あり両方ともネジが緩んでいて、片方はネジもバーツも無くなっていました。
とりあえず、片方だけで固定して本番にのぞみました。
あんまり激しく弾かないでと願っていましたが、そういうわけにはいかないようです
終わった時は半分外れてました。
そのままお預かりして修理をしました。
外して、なくなったバーツを作りました
完成しました
この写真では小さくてわかりにくいですが、ギターの音を電気的な拾うピックアップが外れそうになっていたのです。
ライブの途中で外れたら大変です。
リハの時に彼のギターを見て愕然としました。
ピックアップをガムテープで留めていたのです。彼曰く「すぐ外れます」
みると取り付けねじが2本あり両方ともネジが緩んでいて、片方はネジもバーツも無くなっていました。
とりあえず、片方だけで固定して本番にのぞみました。
あんまり激しく弾かないでと願っていましたが、そういうわけにはいかないようです
終わった時は半分外れてました。
そのままお預かりして修理をしました。
外して、なくなったバーツを作りました
完成しました
ハルマヘラ島からの帰還 ~生死の境をかいま見て~
テーマ:ブログ
2009/07/29 14:17
先日からご案内しています「終戦記念展 ~銃後のくらしと女性たち~」のパネル文章です。
これは男性の手記です。
あまりにも悲惨すぎます。
ハルマヘラ島からの帰還 ― 生死の境をかいま見て ー
戦後数十年、私達は二度と戦争をおこしてはならない。今平和に暮らしていける者の誓いである。今回の戦争で多くの尊い生命を失い例令生きて帰っても身体に大きな障害を受け苦しみながら短く人生を終わった人も、その多くは20歳前後から30歳代の若い人達であった。
私も2度の召集で、最初は、昭和13年9月3日敦賀の歩兵に入隊。中国の揚子江沿いに南京漢口岳州まで戦闘を交えながら進み、部隊の交代で内地に無事帰ることができた。しかしこの部隊はあの激戦の上海上陸作戦で多くの戦死者を出しており、細江でも多くの方が戦死された。私はその激戦の後に補充兵として参加した者で戦闘のすさまじさは九死に一生を経験された方から聞かされ、肉弾戦のすさまじさを知らされた。
2回目の召集は、昭和18年5月28歳のときで、結婚して4日目の朝に召集令状を受け取り、慌ただしく風呂敷包一つを持って鯖江の連隊に入った。「またか 男やったらしかたがない いずれはくるだろう」いう感じだった。面会が2回あり、両親が餅を持ってきてくれた。出発が決まって前々日くらいに両親が来てくれ、十分言えなかったけれど、これが最後かなと思った。
鯖江の連隊に入り間もなく九州の門司港より5千トン位の貨物船に乗り、我々兵隊には行き先も知らされないまま出航した。1隻の船に約1,200人とトラック100台、馬100頭それに約2カ月分の食糧、さらに兵器弾薬が積まれ、まったくお蚕さんの棚の中にいるみたいにすし詰めの状態で約1カ月敵の潜水艦をさけながらジグザグにコースをとり赤道直下の小さな島、ハルマヘラ島に上陸することになった。海岸からすぐにジャングルで、敵の空襲を避けるため、奥地に野小屋式の宿舎を3日程で建てた。少人数ごとの分宿で、炊事は小隊ごとに作った。ニューギニアを反改基地に、また何時でも前線に行ける態勢にせよとの命令が下った。しかしその時すでに海軍の山本五十六司令官は戦死して、南方前線の制海権はアメリカに握られつつあった。
任務は、海岸を少し入った所に塹壕を掘ることであった。赤道直下でスコップ、ツルハシでの作業、最初は人間がかくれる程度から段々深く通路もつくった。作業が限りなく続いた。また、後続の上陸してくる兵器糧秣を奥地へ運搬、部隊間の連絡路づくり、こんなことが半年近くも続いた。
ある日、突然敵の空爆を受けることになる。3日か4日に1回来るのみが段々多くなり、高射砲弾地から応戦、撃退もした。しかし1日に何度となくやってくるようになった。小銃と機関銃しか持たない我々はただ防空壕を深く強固なものにするのみ、やがて敵は我が島前方30mの島に上陸。今度は爆撃機だけでなく戦闘機まで極めて低空で機銃掃射を間断なくやる。そうなると昼間の行動がとれなくなりせっかく陸揚げされた多くの糧秣もほとんど爆破されてしまった。食糧に困難をきたしてきた。仕方なく、現地のパパイヤやタピオカが主食となりった。しかも昼間は空襲のため煙が出せないので夜中に壕の中で火がもれないように分隊ごとの炊事をしてしのいだ。こうなると分隊こそが生死を一つにしたもので、一心同体であった。一つ間違えば爆弾の直撃を受け、人手で掘った壕なんかひとたまりもなく全員がやられてしまう。
さらにジャングルはカが多くマラリヤにやられ、風土病のデング熱におかされ39度以上の高熱と下痢におかされ精神的にまいる者がではじめた。お互いに明日はどうなるかわからない。しかも暑さは赤道直下とてかつて経験したことのない真夏日の連続である。
こうした日々が続いたある日急に爆撃が少なくなってきた。おかしいぞ、敵の上陸作戦かと益々不安な日が4日程続いた。忘れもしない昭和20年8月19日早朝戦争が終わった、全面降伏だと知らされた。何とも言いようのない複雑極まりない一日だった。それから3日程して兵器一切を豪州兵に渡すよう指示された。すべては負けたのだ。まずは内地に帰りたい、しかし日本には我々を迎えにくるような船はないだろう、三年先か五年先か仕方がないと自活をはじめた。2カ月もすると結構なもので海で魚をとる者、海水から塩をつくる者、ヤシの実から油をとる者などどうにか食物に事欠かなくなったきた。しかしこんなこといつまで続くのか眠れない夜もあった。
それでも幸運がきた。昭和21年5月、アメリカの輸送船、リバティが迎えにきてくれた。田辺港に着き、DDTで消毒され体は真っ白、マラリヤの予防注射もした。
6月1日家に戻ると、両親が待っていてくれた。兄も帰ってきていたが、弟は昭和19年ビルマで戦死したと母がぽつりと言った。「弟が死んだがね」何ともいいようがなかった。それから間もなく母は寝込んでしまい、翌年亡くなった。私も2か月微熱で寝込んだ。マラリア後遺症だったのか。
異境の地で尊い命をなくし共に帰れなかった多くの戦友に心から鎮魂のまこを捧げたい。
これは男性の手記です。
あまりにも悲惨すぎます。
ハルマヘラ島からの帰還 ― 生死の境をかいま見て ー
戦後数十年、私達は二度と戦争をおこしてはならない。今平和に暮らしていける者の誓いである。今回の戦争で多くの尊い生命を失い例令生きて帰っても身体に大きな障害を受け苦しみながら短く人生を終わった人も、その多くは20歳前後から30歳代の若い人達であった。
私も2度の召集で、最初は、昭和13年9月3日敦賀の歩兵に入隊。中国の揚子江沿いに南京漢口岳州まで戦闘を交えながら進み、部隊の交代で内地に無事帰ることができた。しかしこの部隊はあの激戦の上海上陸作戦で多くの戦死者を出しており、細江でも多くの方が戦死された。私はその激戦の後に補充兵として参加した者で戦闘のすさまじさは九死に一生を経験された方から聞かされ、肉弾戦のすさまじさを知らされた。
2回目の召集は、昭和18年5月28歳のときで、結婚して4日目の朝に召集令状を受け取り、慌ただしく風呂敷包一つを持って鯖江の連隊に入った。「またか 男やったらしかたがない いずれはくるだろう」いう感じだった。面会が2回あり、両親が餅を持ってきてくれた。出発が決まって前々日くらいに両親が来てくれ、十分言えなかったけれど、これが最後かなと思った。
鯖江の連隊に入り間もなく九州の門司港より5千トン位の貨物船に乗り、我々兵隊には行き先も知らされないまま出航した。1隻の船に約1,200人とトラック100台、馬100頭それに約2カ月分の食糧、さらに兵器弾薬が積まれ、まったくお蚕さんの棚の中にいるみたいにすし詰めの状態で約1カ月敵の潜水艦をさけながらジグザグにコースをとり赤道直下の小さな島、ハルマヘラ島に上陸することになった。海岸からすぐにジャングルで、敵の空襲を避けるため、奥地に野小屋式の宿舎を3日程で建てた。少人数ごとの分宿で、炊事は小隊ごとに作った。ニューギニアを反改基地に、また何時でも前線に行ける態勢にせよとの命令が下った。しかしその時すでに海軍の山本五十六司令官は戦死して、南方前線の制海権はアメリカに握られつつあった。
任務は、海岸を少し入った所に塹壕を掘ることであった。赤道直下でスコップ、ツルハシでの作業、最初は人間がかくれる程度から段々深く通路もつくった。作業が限りなく続いた。また、後続の上陸してくる兵器糧秣を奥地へ運搬、部隊間の連絡路づくり、こんなことが半年近くも続いた。
ある日、突然敵の空爆を受けることになる。3日か4日に1回来るのみが段々多くなり、高射砲弾地から応戦、撃退もした。しかし1日に何度となくやってくるようになった。小銃と機関銃しか持たない我々はただ防空壕を深く強固なものにするのみ、やがて敵は我が島前方30mの島に上陸。今度は爆撃機だけでなく戦闘機まで極めて低空で機銃掃射を間断なくやる。そうなると昼間の行動がとれなくなりせっかく陸揚げされた多くの糧秣もほとんど爆破されてしまった。食糧に困難をきたしてきた。仕方なく、現地のパパイヤやタピオカが主食となりった。しかも昼間は空襲のため煙が出せないので夜中に壕の中で火がもれないように分隊ごとの炊事をしてしのいだ。こうなると分隊こそが生死を一つにしたもので、一心同体であった。一つ間違えば爆弾の直撃を受け、人手で掘った壕なんかひとたまりもなく全員がやられてしまう。
さらにジャングルはカが多くマラリヤにやられ、風土病のデング熱におかされ39度以上の高熱と下痢におかされ精神的にまいる者がではじめた。お互いに明日はどうなるかわからない。しかも暑さは赤道直下とてかつて経験したことのない真夏日の連続である。
こうした日々が続いたある日急に爆撃が少なくなってきた。おかしいぞ、敵の上陸作戦かと益々不安な日が4日程続いた。忘れもしない昭和20年8月19日早朝戦争が終わった、全面降伏だと知らされた。何とも言いようのない複雑極まりない一日だった。それから3日程して兵器一切を豪州兵に渡すよう指示された。すべては負けたのだ。まずは内地に帰りたい、しかし日本には我々を迎えにくるような船はないだろう、三年先か五年先か仕方がないと自活をはじめた。2カ月もすると結構なもので海で魚をとる者、海水から塩をつくる者、ヤシの実から油をとる者などどうにか食物に事欠かなくなったきた。しかしこんなこといつまで続くのか眠れない夜もあった。
それでも幸運がきた。昭和21年5月、アメリカの輸送船、リバティが迎えにきてくれた。田辺港に着き、DDTで消毒され体は真っ白、マラリヤの予防注射もした。
6月1日家に戻ると、両親が待っていてくれた。兄も帰ってきていたが、弟は昭和19年ビルマで戦死したと母がぽつりと言った。「弟が死んだがね」何ともいいようがなかった。それから間もなく母は寝込んでしまい、翌年亡くなった。私も2か月微熱で寝込んだ。マラリア後遺症だったのか。
異境の地で尊い命をなくし共に帰れなかった多くの戦友に心から鎮魂のまこを捧げたい。