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ブルーベリージャム

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先日、ブルーベリーmamaさんのところで摘んできました

ブルーベリー3パックを妻がジャムにしました。



添加物はグラニュー糖のみです。

ちょうど、ブルーベリージャムのガラス容器がありましたので入れました。



おお!まるで買ってきたみたい。

わざとつぶつぶを残してもらい食感を楽しみました

朝のトーストにつけて頂きました。

めちゃうまい!超うまい!

ところでアントシアニンは目に良いという話をききます。

調べてみましたら

こんな文章がありました

目の網膜には光に反応してそれを脳に伝えるはたらきをする「視細胞」がある。この視細胞の中には「ロドプシン」という物質があり、これが分解・再合成をすることで光を信号に変えて脳に送りだし、物が見えるというワケだ。
ロドプシンのはたらきが鈍ると物が見えづらくなったり、視界が曇ったり、チカチカして見える、などの症状が出て眼精疲労も進んでしまう。そのロドプシンの再合成を助けているのが「アントシアニン」なのだ!

また、アントシアニンには血行をよくするはたらきがあり、目に十分な栄養素を送り込む役割もある。

ふーむ

心なしか、しゃっきり見える気がする(そんなすぐに効く?)

あれから64年 8月15日終戦の日を迎えて 

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これも浅井歴史民俗資料館で開催中の「終戦記念展」 ~銃後のくらしと女性たち~
の中のパネル文です。
固有名詞には◎という伏せ字を入れています

今回も長いですが全文載せます

悲しすぎます



あれから64年 8月15日終戦の日を迎えて 

 昭和16年の冬、両親の話し合いにて結婚が決められました。戦争の最中、まだ日本が勝っていて、内地の物資は無く嫁入りするにも箪笥も無ければ、下駄箱も店には売ってなく、物を持って頼み、着物を作るには衣料切符が無ければ買えない時代でした。親の愛情で何とか少し嫁入り道具を用意してもらい、同17年4月13日結婚しました。

 夫・◎雄は、名古屋に本社のある中◎新聞の記者で、あちこちと転勤がありました。結婚した頃は、両親も健在で、同18年3月27日男の子を出産。

 同19年7月24日だったと思います。近江八幡の通信局への転勤が決まり、それと同時に召集令状がきました。大事な大事な1人息子で、両親は2人共病気を患っていました。令状がきてから1カ月、明けても暮れても両親は一人息子の出征に泣き崩れ、そばを離れませんでした。私も1歳4カ月の息子を抱え、どうする事も出来ないまま親子5人の苦しい毎日が続きました。

 8月23日敦賀へ入隊の日はあっという間にきてしまいました。親戚の人等集まり、赤飯を炊いて、バンザイバンザイと送りだされました。親子の別れの言葉も交わす事もなく、お寺の裏の畑で、出征する夫の後姿を見送りながら息子をだきしめ大声をあげて泣きました。これが最後の別れとも思わず、幼い子を抱え正気を無くしたかのように泣きました。

 ただ呆然と2~3日が過ぎ、8月26日主人から長浜の通信局に連絡が入りました。○時頃出発する、駅に出るようにと。その時分、電話はお医者さんにしかなく、通信局より家族にすぐ伝えられました。でも遅かったのです。私は主人の言付けで長浜の通信局に行くことになっており、子どもを連れて行きたかったのですが、両親が小さいから置いていくように言われ用事だけ済ませて汽車にて虎姫まで帰ってきました。家に帰って帯〆を取った時に主人の出発の知らせを聞きました。帯〆を再び結びながら虎姫駅に走りました。でも残念な事に、兵隊さんの乗った汽車は出発した後でした。長浜の通信局の人は、長浜駅で主人に会っていました。私も30分前に長浜駅にいたのに・・。その時主人が言い残した言葉は「(◎みが長浜駅に来ていたのに会えなかった)残念。しまった。」その夜は京都泊まりと聞き、幼子に防空頭巾をかぶせ私はモンペ姿、カバンに必要品を詰め、何時でも連絡があれば何としても会いたいと寝ずに一夜をあかしました。

 後日、「京都駅に泊まり、今日は下関より船に乗り、プサンに行く 暫くは連絡できない 心配するな」と書いた封書が私の父の名前で着きました。もう会えない、帰れない所に行ってしまったのです。病気がちの老父母と1歳4カ月の子どもを残して、生木を裂くようにお国のためにいきました。 

 私は26歳、主人が出征してからは、辛くて涙する両親を宥めながら、また子どもを見ながら実家の父の言葉に励まされ、自分がしっかりしていなければと気を張っていました。

 同年9月8日、義父は主人の名前を呼びながら、ショックのため無くなりました。その後義母も病床につき、1歳5カ月になった息子も病気になり、地元のお医者さんに見てもらっていました。次第にやせ細り日赤に連れて行きました。病院の先生は、こんなことをしていたら死なせてしまうと、大垣市揖斐の清◎先生を紹介していただき実家の父と2人で行きました。何時警戒警報になるかわからないけれど息子も連れて行きました。そして4週間分のお薬を父が貰いに行ってくれ、助かりました。

 同年11月義母の具合が悪くなり、11月26日死去。主人が出征後、98日目のことでした。同じ年に5人家族が子どもと私の2人になってしましました。その頃には、お米もなく、実家に助けてもらったやっと葬式も出すことができました。食べる物が無くなると父は「お前だけを死なす事はない」、「親子皆一緒に死ねばよい」と言いました。この2つの言葉を思い出すと64年たった今でも涙が出ます。父が亡くなった今でも忘れることはできない父の愛情に支えられて終戦まで生きて来られたと思います。

 昭和20年8月15日、戦争が終わって、これでやっと主人は帰ってくると信じながら毎日毎日待ちました。兵隊さんの乗った汽車が虎姫を通る、降りてくるのではないかと見に行きました。1カ月たっても、1年たっても帰ってきません。その頃は、戦前よりも食糧事情が悪く米もなく、塩・砂糖・醤油・炭・魚などあらゆる物がなく、預貯金は凍結されお金は食費だけ出してもらいました。米は配給、配給でもらうのはコーリャン、食べた事もありませでした。

 野菜も作った事のない私が庭先をつぶしてかぼちゃを教えてもらいながら作りました。やっと実がとれるようになったら盗まれる、親がせっかく作ってくれた着物も盗まれるなど、2~3歳の子どもと2人暮らす生活がどんなものだったか、今の若い人には通じる筈もありません。おかゆを炊いても、数粒の米粒が浮いている程度、子どもに米粒を食べさせて、私は汁をすすうという生活でした。でも実家が近かったことは何よりの救いでした。


飛びきりの美女現る!

テーマ:ライブレポート
これは?!
誰でしょう
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すごい微女でしょう


夕べのお客も満足されたのではないでしょうか

僕らの世代にはとても懐かしい曲の数々でした。
セットリストです
1.ひまわり
2.カサブランカ・ダンディー
3.渚のシンドバット
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第2幕
4.年下の男の子
5.他人の関係
6.ミスターサマータイム
7.木綿のハンカチーフ
8.Sweet Memories
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第3幕
9.街の灯り
10.デイ・ドリーム・ビリーバー
11.笑えれば
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第4幕
12.(虹と太陽の丘」)差し替え不明
13.シュガーレス
14.フリーソング
ike5
アンコール
15.虹の見えるところ

それともう一つ
彼がこのライブで発信したかったのがまちづくりなのだ。
マチがきれいになるのは良いことだけど、そのマチにある「音」を出し続けないとマチの元気が無くなる。音はみんなの声でもあるのだ。
このメッセージは皆さん伝わりましたか?

たった一週間の結婚生活

テーマ:ブログ
浅井歴史民俗資料館で開催中の「終戦記念展」 ~銃後のくらしと女性たち~
の中のパネル文です。

プライバシーの面から、1部文章を変えていますご了承下さい。

戦争は悲惨です。怒り憎しみ哀しみしか生まれませんね。
戦争に人生を翻弄させられた一人の女性の文章です
長いので分割しようかと思いましたが
一気によんで頂いた方が、よさそうなので全文載せます


たった一週間の結婚生活

 私は、両親と兄2人、弟の5人家族でした。兄2人は、戦地へいき、私と両親は、田んぼ8段を牛耕し蚕も飼いきばり抜きました。母は若くして亡くなり、父を支えるという気持ちが強く、家のことも何もかもしました。小さかった弟は私のことを親だと思っていました。兄2人が戦地へ行き、補助ももらえたのに父は「兵隊さんが苦労されているのに」ともらいませんでした。

 父の姉が渡岸寺◎◎家に嫁いでおり、1人息子庄◎郎さんがいました。私とは8つ年が離れていました。◎◎家の父・庄◎助さんが「足入れだけしてくれ。」と地下足袋をはいて渡岸寺から大路まで1週間通われ、それに辛抱負けして嫁いできました。父には「ぼん(と父を)置いて出ていけて鬼や。」と言いました。ぼんは来年学校行きで私は22歳でした。

 昭和19年3月28日、雨風の中渡岸寺へ来ました。学校をあがって働き、皆勤賞でもらった反物2反で着物と羽織を自分で縫うて、それを着てきました。庄◎助おじさんさんと親戚の仲人さんと傘さして、虎姫駅へ行く途中、嫌で嫌で何も考えずに数だけ数えてました。五村別院のとこで私の履いていた下駄が切れました。「あ、何かあるな。」と感じました。虎姫駅で庄◎助おじさんがたたん針を借りて、手ぬぐいをしゃいてして下駄をすげてくれました。虎姫駅から汽車にのり、高月の駅を降り家まで歩いてきました。

 下駄1足買えん時代でしたが、父親が米3升もって長浜で下駄を買うてきてくれました。また親戚の人が大八に行李と母のたんす1本を持ってきてくれました。母のたんすを父が黒く塗ってくれました。物のない時代、何も持っていくものがなくたんすの中はからっぽ。中を見せてと言われて「入ったったのにおかしいな。」とうそをついたこともありました。

 家に着いた私は、便所で泣き、なかなか出でこられませんでした。父と一緒に来たぼんは、私と一緒に寝るというてましたが、父がそっと連れて帰りました。
 4月1日、三日帰りで大路に帰っていました。今日は渡岸寺へ帰らんならんとおこわを炊いていました。早朝主人が来ました。「おじさんこんなもんがきた。」「これ召集令状やないか。早ようからきたったんちがうか。」と父は怒りながらも「しょうがない。」と言いました。主人は日の丸も持ってきていて、中にはようけ名前が書いてありました。開いているとこはよけなく、早よからわかったったんやろと思います。主人は、私を自転車の荷台に乗せ、石だらけの道を家へと戻りました。皆さんが来ていて、私もわけがわからずふわっとなってしまっていました。新婚旅行のかわりにと、お多賀さんへ参りに行きました。自分とこの田んぼがここやどこにあるか聞いたくらい、それくらいです。

 主人は、4月8日伏見連隊へ入隊、中国へ。5月8日、大路の父と義父母と私で面会に出かけました。何も持っていけないと聞いていたので、するめを1羽ひもで腹に結んで小麦の焼き団子を行きました。暑いのに中に入れんならんし将校マントを着て行きました。義父は、水筒に酒を入れていきました。上官が「山岡何飲んでる。」と主人に言われましたが「お茶であります。」と答えていました。面会のとき主人は「留守をたのむ。」と繰り返し、それっきり。駅の工夫が、今夜たつと教えてくれました。

 大路では、防空壕は掘らなんだけど、渡岸寺では掘りました。しゃがんで入れるくらいの広さで、福井の親戚の大切な物を預かっていたのでそれを入れていました。竹やりの訓練も会議所や渡岸寺でありました。私は、若いからて前に出されて竹やりの訓練しました。バケツリレーもしました。B29がくると、田んぼの畦の榛の木のとこへ隠れました。それはこわかった。

 渡岸寺さんの命日17日には、日帰りで大路へ帰っていました。父は私が塩マスが好きやでとよそでも食わんと残しておいてくれ、私の膳の横へ置き食べさせてくれました。

 昭和19年8月14日、夫は戦死。戦死公報で知りました。驚きで涙も出ない両親。私も泣いていられんし、遺骨はもんできました。大路へ帰りたいと思いました。死んでしまおかと駅まで行ったこともあります。前のおばさんも私がかわいそうにとおばに言いました。おばは、「こちらへもろたから、帰ってもらえん。石にかじりついてでも辛抱してもらう。」言いました。しかしお金こそなかったですが、おじさんとおばさんが私を頼りに本当に大事にしてくれていました。葬式もして7年義父母と3人で暮らしました。父も「じょう じょう」と娘のように可愛がり、母も息子がなくなっても、愚痴一つ言いませんでした。

 親戚の世話で、近くから良い人をもろて再婚。昭和26年、子どもが生まれた時、父がどうしてもはらわた餅を持っていくと聞きませんでした。虎姫駅から汽車にのり高月駅まで来ましたが、餅を持ってきられなんで、近くの人に届けてもらいました。ようよう家まで来たときには、顔がはれ、急に悪うなりました。「ここで寝込んではあかん  家に帰りたい」というので、伊部まで送っていきました。その時無理したのがもとで父は亡くなってしまいました。母親がわりにどうしてもと思ったんでしょうね。

 私と庄◎郎さんが一緒にいた日々は一週間足らず。結婚して、戦死して、葬式を出して1年のうちにみなすんでしまいました。戦後も寸暇をおしみ農作業に精を出し、よそのむしろやら米の俵やらを作りました。100ほどつくったこともあります。おじいさんがわらすぐりを毎日して、藁仕事をようけしました。針仕事も好きでもんぺをようけ作りました。自分のもん言うていっぺんも買わず、母のもんをつぶしてはいで、縫うて、それでもいけました。
きばってきばってこんな人生よけないなと思いますが、今は、家族と暮らす日々、苦労をしたからその倍最高の幸せです。

今晩のテーマは

テーマ:ライブ告知
夕べ、リハを兼ねてライブの打ち合わせを行いました

昭和歌謡が随所に出てきますが、その隠れたテーマはズバリ長浜。

彼の長浜の原風景は、少し違うのだ。

なんと、シャッターが降りた薄暗い人通りのない商店街なのだ。

今の長浜は惜しいと言います。

さて、どんなメッセージを発信してくれますか

本日ライブ中にミニ抽選会を行います

目玉は、昨年11月と今年3月の池崎君ライブのDVDを差し上げます

あードキドキしてきた
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仕事は眼鏡補聴器が本業ですが 
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ライブの企画などを趣味でやっています。
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