たった一週間の結婚生活
テーマ:ブログ
2009/07/26 17:03
浅井歴史民俗資料館で開催中の「終戦記念展」 ~銃後のくらしと女性たち~
の中のパネル文です。
プライバシーの面から、1部文章を変えていますご了承下さい。
戦争は悲惨です。怒り憎しみ哀しみしか生まれませんね。
戦争に人生を翻弄させられた一人の女性の文章です
長いので分割しようかと思いましたが
一気によんで頂いた方が、よさそうなので全文載せます
たった一週間の結婚生活
私は、両親と兄2人、弟の5人家族でした。兄2人は、戦地へいき、私と両親は、田んぼ8段を牛耕し蚕も飼いきばり抜きました。母は若くして亡くなり、父を支えるという気持ちが強く、家のことも何もかもしました。小さかった弟は私のことを親だと思っていました。兄2人が戦地へ行き、補助ももらえたのに父は「兵隊さんが苦労されているのに」ともらいませんでした。
父の姉が渡岸寺◎◎家に嫁いでおり、1人息子庄◎郎さんがいました。私とは8つ年が離れていました。◎◎家の父・庄◎助さんが「足入れだけしてくれ。」と地下足袋をはいて渡岸寺から大路まで1週間通われ、それに辛抱負けして嫁いできました。父には「ぼん(と父を)置いて出ていけて鬼や。」と言いました。ぼんは来年学校行きで私は22歳でした。
昭和19年3月28日、雨風の中渡岸寺へ来ました。学校をあがって働き、皆勤賞でもらった反物2反で着物と羽織を自分で縫うて、それを着てきました。庄◎助おじさんさんと親戚の仲人さんと傘さして、虎姫駅へ行く途中、嫌で嫌で何も考えずに数だけ数えてました。五村別院のとこで私の履いていた下駄が切れました。「あ、何かあるな。」と感じました。虎姫駅で庄◎助おじさんがたたん針を借りて、手ぬぐいをしゃいてして下駄をすげてくれました。虎姫駅から汽車にのり、高月の駅を降り家まで歩いてきました。
下駄1足買えん時代でしたが、父親が米3升もって長浜で下駄を買うてきてくれました。また親戚の人が大八に行李と母のたんす1本を持ってきてくれました。母のたんすを父が黒く塗ってくれました。物のない時代、何も持っていくものがなくたんすの中はからっぽ。中を見せてと言われて「入ったったのにおかしいな。」とうそをついたこともありました。
家に着いた私は、便所で泣き、なかなか出でこられませんでした。父と一緒に来たぼんは、私と一緒に寝るというてましたが、父がそっと連れて帰りました。
4月1日、三日帰りで大路に帰っていました。今日は渡岸寺へ帰らんならんとおこわを炊いていました。早朝主人が来ました。「おじさんこんなもんがきた。」「これ召集令状やないか。早ようからきたったんちがうか。」と父は怒りながらも「しょうがない。」と言いました。主人は日の丸も持ってきていて、中にはようけ名前が書いてありました。開いているとこはよけなく、早よからわかったったんやろと思います。主人は、私を自転車の荷台に乗せ、石だらけの道を家へと戻りました。皆さんが来ていて、私もわけがわからずふわっとなってしまっていました。新婚旅行のかわりにと、お多賀さんへ参りに行きました。自分とこの田んぼがここやどこにあるか聞いたくらい、それくらいです。
主人は、4月8日伏見連隊へ入隊、中国へ。5月8日、大路の父と義父母と私で面会に出かけました。何も持っていけないと聞いていたので、するめを1羽ひもで腹に結んで小麦の焼き団子を行きました。暑いのに中に入れんならんし将校マントを着て行きました。義父は、水筒に酒を入れていきました。上官が「山岡何飲んでる。」と主人に言われましたが「お茶であります。」と答えていました。面会のとき主人は「留守をたのむ。」と繰り返し、それっきり。駅の工夫が、今夜たつと教えてくれました。
大路では、防空壕は掘らなんだけど、渡岸寺では掘りました。しゃがんで入れるくらいの広さで、福井の親戚の大切な物を預かっていたのでそれを入れていました。竹やりの訓練も会議所や渡岸寺でありました。私は、若いからて前に出されて竹やりの訓練しました。バケツリレーもしました。B29がくると、田んぼの畦の榛の木のとこへ隠れました。それはこわかった。
渡岸寺さんの命日17日には、日帰りで大路へ帰っていました。父は私が塩マスが好きやでとよそでも食わんと残しておいてくれ、私の膳の横へ置き食べさせてくれました。
昭和19年8月14日、夫は戦死。戦死公報で知りました。驚きで涙も出ない両親。私も泣いていられんし、遺骨はもんできました。大路へ帰りたいと思いました。死んでしまおかと駅まで行ったこともあります。前のおばさんも私がかわいそうにとおばに言いました。おばは、「こちらへもろたから、帰ってもらえん。石にかじりついてでも辛抱してもらう。」言いました。しかしお金こそなかったですが、おじさんとおばさんが私を頼りに本当に大事にしてくれていました。葬式もして7年義父母と3人で暮らしました。父も「じょう じょう」と娘のように可愛がり、母も息子がなくなっても、愚痴一つ言いませんでした。
親戚の世話で、近くから良い人をもろて再婚。昭和26年、子どもが生まれた時、父がどうしてもはらわた餅を持っていくと聞きませんでした。虎姫駅から汽車にのり高月駅まで来ましたが、餅を持ってきられなんで、近くの人に届けてもらいました。ようよう家まで来たときには、顔がはれ、急に悪うなりました。「ここで寝込んではあかん 家に帰りたい」というので、伊部まで送っていきました。その時無理したのがもとで父は亡くなってしまいました。母親がわりにどうしてもと思ったんでしょうね。
私と庄◎郎さんが一緒にいた日々は一週間足らず。結婚して、戦死して、葬式を出して1年のうちにみなすんでしまいました。戦後も寸暇をおしみ農作業に精を出し、よそのむしろやら米の俵やらを作りました。100ほどつくったこともあります。おじいさんがわらすぐりを毎日して、藁仕事をようけしました。針仕事も好きでもんぺをようけ作りました。自分のもん言うていっぺんも買わず、母のもんをつぶしてはいで、縫うて、それでもいけました。
きばってきばってこんな人生よけないなと思いますが、今は、家族と暮らす日々、苦労をしたからその倍最高の幸せです。
の中のパネル文です。
プライバシーの面から、1部文章を変えていますご了承下さい。
戦争は悲惨です。怒り憎しみ哀しみしか生まれませんね。
戦争に人生を翻弄させられた一人の女性の文章です
長いので分割しようかと思いましたが
一気によんで頂いた方が、よさそうなので全文載せます
たった一週間の結婚生活
私は、両親と兄2人、弟の5人家族でした。兄2人は、戦地へいき、私と両親は、田んぼ8段を牛耕し蚕も飼いきばり抜きました。母は若くして亡くなり、父を支えるという気持ちが強く、家のことも何もかもしました。小さかった弟は私のことを親だと思っていました。兄2人が戦地へ行き、補助ももらえたのに父は「兵隊さんが苦労されているのに」ともらいませんでした。
父の姉が渡岸寺◎◎家に嫁いでおり、1人息子庄◎郎さんがいました。私とは8つ年が離れていました。◎◎家の父・庄◎助さんが「足入れだけしてくれ。」と地下足袋をはいて渡岸寺から大路まで1週間通われ、それに辛抱負けして嫁いできました。父には「ぼん(と父を)置いて出ていけて鬼や。」と言いました。ぼんは来年学校行きで私は22歳でした。
昭和19年3月28日、雨風の中渡岸寺へ来ました。学校をあがって働き、皆勤賞でもらった反物2反で着物と羽織を自分で縫うて、それを着てきました。庄◎助おじさんさんと親戚の仲人さんと傘さして、虎姫駅へ行く途中、嫌で嫌で何も考えずに数だけ数えてました。五村別院のとこで私の履いていた下駄が切れました。「あ、何かあるな。」と感じました。虎姫駅で庄◎助おじさんがたたん針を借りて、手ぬぐいをしゃいてして下駄をすげてくれました。虎姫駅から汽車にのり、高月の駅を降り家まで歩いてきました。
下駄1足買えん時代でしたが、父親が米3升もって長浜で下駄を買うてきてくれました。また親戚の人が大八に行李と母のたんす1本を持ってきてくれました。母のたんすを父が黒く塗ってくれました。物のない時代、何も持っていくものがなくたんすの中はからっぽ。中を見せてと言われて「入ったったのにおかしいな。」とうそをついたこともありました。
家に着いた私は、便所で泣き、なかなか出でこられませんでした。父と一緒に来たぼんは、私と一緒に寝るというてましたが、父がそっと連れて帰りました。
4月1日、三日帰りで大路に帰っていました。今日は渡岸寺へ帰らんならんとおこわを炊いていました。早朝主人が来ました。「おじさんこんなもんがきた。」「これ召集令状やないか。早ようからきたったんちがうか。」と父は怒りながらも「しょうがない。」と言いました。主人は日の丸も持ってきていて、中にはようけ名前が書いてありました。開いているとこはよけなく、早よからわかったったんやろと思います。主人は、私を自転車の荷台に乗せ、石だらけの道を家へと戻りました。皆さんが来ていて、私もわけがわからずふわっとなってしまっていました。新婚旅行のかわりにと、お多賀さんへ参りに行きました。自分とこの田んぼがここやどこにあるか聞いたくらい、それくらいです。
主人は、4月8日伏見連隊へ入隊、中国へ。5月8日、大路の父と義父母と私で面会に出かけました。何も持っていけないと聞いていたので、するめを1羽ひもで腹に結んで小麦の焼き団子を行きました。暑いのに中に入れんならんし将校マントを着て行きました。義父は、水筒に酒を入れていきました。上官が「山岡何飲んでる。」と主人に言われましたが「お茶であります。」と答えていました。面会のとき主人は「留守をたのむ。」と繰り返し、それっきり。駅の工夫が、今夜たつと教えてくれました。
大路では、防空壕は掘らなんだけど、渡岸寺では掘りました。しゃがんで入れるくらいの広さで、福井の親戚の大切な物を預かっていたのでそれを入れていました。竹やりの訓練も会議所や渡岸寺でありました。私は、若いからて前に出されて竹やりの訓練しました。バケツリレーもしました。B29がくると、田んぼの畦の榛の木のとこへ隠れました。それはこわかった。
渡岸寺さんの命日17日には、日帰りで大路へ帰っていました。父は私が塩マスが好きやでとよそでも食わんと残しておいてくれ、私の膳の横へ置き食べさせてくれました。
昭和19年8月14日、夫は戦死。戦死公報で知りました。驚きで涙も出ない両親。私も泣いていられんし、遺骨はもんできました。大路へ帰りたいと思いました。死んでしまおかと駅まで行ったこともあります。前のおばさんも私がかわいそうにとおばに言いました。おばは、「こちらへもろたから、帰ってもらえん。石にかじりついてでも辛抱してもらう。」言いました。しかしお金こそなかったですが、おじさんとおばさんが私を頼りに本当に大事にしてくれていました。葬式もして7年義父母と3人で暮らしました。父も「じょう じょう」と娘のように可愛がり、母も息子がなくなっても、愚痴一つ言いませんでした。
親戚の世話で、近くから良い人をもろて再婚。昭和26年、子どもが生まれた時、父がどうしてもはらわた餅を持っていくと聞きませんでした。虎姫駅から汽車にのり高月駅まで来ましたが、餅を持ってきられなんで、近くの人に届けてもらいました。ようよう家まで来たときには、顔がはれ、急に悪うなりました。「ここで寝込んではあかん 家に帰りたい」というので、伊部まで送っていきました。その時無理したのがもとで父は亡くなってしまいました。母親がわりにどうしてもと思ったんでしょうね。
私と庄◎郎さんが一緒にいた日々は一週間足らず。結婚して、戦死して、葬式を出して1年のうちにみなすんでしまいました。戦後も寸暇をおしみ農作業に精を出し、よそのむしろやら米の俵やらを作りました。100ほどつくったこともあります。おじいさんがわらすぐりを毎日して、藁仕事をようけしました。針仕事も好きでもんぺをようけ作りました。自分のもん言うていっぺんも買わず、母のもんをつぶしてはいで、縫うて、それでもいけました。
きばってきばってこんな人生よけないなと思いますが、今は、家族と暮らす日々、苦労をしたからその倍最高の幸せです。
今晩のテーマは
テーマ:ライブ告知
2009/07/26 10:10
夕べ、リハを兼ねてライブの打ち合わせを行いました
昭和歌謡が随所に出てきますが、その隠れたテーマはズバリ長浜。
彼の長浜の原風景は、少し違うのだ。
なんと、シャッターが降りた薄暗い人通りのない商店街なのだ。
今の長浜は惜しいと言います。
さて、どんなメッセージを発信してくれますか
本日ライブ中にミニ抽選会を行います
目玉は、昨年11月と今年3月の池崎君ライブのDVDを差し上げます
あードキドキしてきた
昭和歌謡が随所に出てきますが、その隠れたテーマはズバリ長浜。
彼の長浜の原風景は、少し違うのだ。
なんと、シャッターが降りた薄暗い人通りのない商店街なのだ。
今の長浜は惜しいと言います。
さて、どんなメッセージを発信してくれますか
本日ライブ中にミニ抽選会を行います
目玉は、昨年11月と今年3月の池崎君ライブのDVDを差し上げます
あードキドキしてきた