あれから64年 8月15日終戦の日を迎えて 

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これも浅井歴史民俗資料館で開催中の「終戦記念展」 ~銃後のくらしと女性たち~
の中のパネル文です。
固有名詞には◎という伏せ字を入れています

今回も長いですが全文載せます

悲しすぎます



あれから64年 8月15日終戦の日を迎えて 

 昭和16年の冬、両親の話し合いにて結婚が決められました。戦争の最中、まだ日本が勝っていて、内地の物資は無く嫁入りするにも箪笥も無ければ、下駄箱も店には売ってなく、物を持って頼み、着物を作るには衣料切符が無ければ買えない時代でした。親の愛情で何とか少し嫁入り道具を用意してもらい、同17年4月13日結婚しました。

 夫・◎雄は、名古屋に本社のある中◎新聞の記者で、あちこちと転勤がありました。結婚した頃は、両親も健在で、同18年3月27日男の子を出産。

 同19年7月24日だったと思います。近江八幡の通信局への転勤が決まり、それと同時に召集令状がきました。大事な大事な1人息子で、両親は2人共病気を患っていました。令状がきてから1カ月、明けても暮れても両親は一人息子の出征に泣き崩れ、そばを離れませんでした。私も1歳4カ月の息子を抱え、どうする事も出来ないまま親子5人の苦しい毎日が続きました。

 8月23日敦賀へ入隊の日はあっという間にきてしまいました。親戚の人等集まり、赤飯を炊いて、バンザイバンザイと送りだされました。親子の別れの言葉も交わす事もなく、お寺の裏の畑で、出征する夫の後姿を見送りながら息子をだきしめ大声をあげて泣きました。これが最後の別れとも思わず、幼い子を抱え正気を無くしたかのように泣きました。

 ただ呆然と2~3日が過ぎ、8月26日主人から長浜の通信局に連絡が入りました。○時頃出発する、駅に出るようにと。その時分、電話はお医者さんにしかなく、通信局より家族にすぐ伝えられました。でも遅かったのです。私は主人の言付けで長浜の通信局に行くことになっており、子どもを連れて行きたかったのですが、両親が小さいから置いていくように言われ用事だけ済ませて汽車にて虎姫まで帰ってきました。家に帰って帯〆を取った時に主人の出発の知らせを聞きました。帯〆を再び結びながら虎姫駅に走りました。でも残念な事に、兵隊さんの乗った汽車は出発した後でした。長浜の通信局の人は、長浜駅で主人に会っていました。私も30分前に長浜駅にいたのに・・。その時主人が言い残した言葉は「(◎みが長浜駅に来ていたのに会えなかった)残念。しまった。」その夜は京都泊まりと聞き、幼子に防空頭巾をかぶせ私はモンペ姿、カバンに必要品を詰め、何時でも連絡があれば何としても会いたいと寝ずに一夜をあかしました。

 後日、「京都駅に泊まり、今日は下関より船に乗り、プサンに行く 暫くは連絡できない 心配するな」と書いた封書が私の父の名前で着きました。もう会えない、帰れない所に行ってしまったのです。病気がちの老父母と1歳4カ月の子どもを残して、生木を裂くようにお国のためにいきました。 

 私は26歳、主人が出征してからは、辛くて涙する両親を宥めながら、また子どもを見ながら実家の父の言葉に励まされ、自分がしっかりしていなければと気を張っていました。

 同年9月8日、義父は主人の名前を呼びながら、ショックのため無くなりました。その後義母も病床につき、1歳5カ月になった息子も病気になり、地元のお医者さんに見てもらっていました。次第にやせ細り日赤に連れて行きました。病院の先生は、こんなことをしていたら死なせてしまうと、大垣市揖斐の清◎先生を紹介していただき実家の父と2人で行きました。何時警戒警報になるかわからないけれど息子も連れて行きました。そして4週間分のお薬を父が貰いに行ってくれ、助かりました。

 同年11月義母の具合が悪くなり、11月26日死去。主人が出征後、98日目のことでした。同じ年に5人家族が子どもと私の2人になってしましました。その頃には、お米もなく、実家に助けてもらったやっと葬式も出すことができました。食べる物が無くなると父は「お前だけを死なす事はない」、「親子皆一緒に死ねばよい」と言いました。この2つの言葉を思い出すと64年たった今でも涙が出ます。父が亡くなった今でも忘れることはできない父の愛情に支えられて終戦まで生きて来られたと思います。

 昭和20年8月15日、戦争が終わって、これでやっと主人は帰ってくると信じながら毎日毎日待ちました。兵隊さんの乗った汽車が虎姫を通る、降りてくるのではないかと見に行きました。1カ月たっても、1年たっても帰ってきません。その頃は、戦前よりも食糧事情が悪く米もなく、塩・砂糖・醤油・炭・魚などあらゆる物がなく、預貯金は凍結されお金は食費だけ出してもらいました。米は配給、配給でもらうのはコーリャン、食べた事もありませでした。

 野菜も作った事のない私が庭先をつぶしてかぼちゃを教えてもらいながら作りました。やっと実がとれるようになったら盗まれる、親がせっかく作ってくれた着物も盗まれるなど、2~3歳の子どもと2人暮らす生活がどんなものだったか、今の若い人には通じる筈もありません。おかゆを炊いても、数粒の米粒が浮いている程度、子どもに米粒を食べさせて、私は汁をすすうという生活でした。でも実家が近かったことは何よりの救いでした。


飛びきりの美女現る!

テーマ:ライブレポート
これは?!
誰でしょう
ike1
すごい微女でしょう


夕べのお客も満足されたのではないでしょうか

僕らの世代にはとても懐かしい曲の数々でした。
セットリストです
1.ひまわり
2.カサブランカ・ダンディー
3.渚のシンドバット
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第2幕
4.年下の男の子
5.他人の関係
6.ミスターサマータイム
7.木綿のハンカチーフ
8.Sweet Memories
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第3幕
9.街の灯り
10.デイ・ドリーム・ビリーバー
11.笑えれば
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第4幕
12.(虹と太陽の丘」)差し替え不明
13.シュガーレス
14.フリーソング
ike5
アンコール
15.虹の見えるところ

それともう一つ
彼がこのライブで発信したかったのがまちづくりなのだ。
マチがきれいになるのは良いことだけど、そのマチにある「音」を出し続けないとマチの元気が無くなる。音はみんなの声でもあるのだ。
このメッセージは皆さん伝わりましたか?

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まーぼう

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