ハルマヘラ島からの帰還 ~生死の境をかいま見て~
テーマ:ブログ
2009/07/29 14:17
先日からご案内しています「終戦記念展 ~銃後のくらしと女性たち~」のパネル文章です。
これは男性の手記です。
あまりにも悲惨すぎます。
ハルマヘラ島からの帰還 ― 生死の境をかいま見て ー
戦後数十年、私達は二度と戦争をおこしてはならない。今平和に暮らしていける者の誓いである。今回の戦争で多くの尊い生命を失い例令生きて帰っても身体に大きな障害を受け苦しみながら短く人生を終わった人も、その多くは20歳前後から30歳代の若い人達であった。
私も2度の召集で、最初は、昭和13年9月3日敦賀の歩兵に入隊。中国の揚子江沿いに南京漢口岳州まで戦闘を交えながら進み、部隊の交代で内地に無事帰ることができた。しかしこの部隊はあの激戦の上海上陸作戦で多くの戦死者を出しており、細江でも多くの方が戦死された。私はその激戦の後に補充兵として参加した者で戦闘のすさまじさは九死に一生を経験された方から聞かされ、肉弾戦のすさまじさを知らされた。
2回目の召集は、昭和18年5月28歳のときで、結婚して4日目の朝に召集令状を受け取り、慌ただしく風呂敷包一つを持って鯖江の連隊に入った。「またか 男やったらしかたがない いずれはくるだろう」いう感じだった。面会が2回あり、両親が餅を持ってきてくれた。出発が決まって前々日くらいに両親が来てくれ、十分言えなかったけれど、これが最後かなと思った。
鯖江の連隊に入り間もなく九州の門司港より5千トン位の貨物船に乗り、我々兵隊には行き先も知らされないまま出航した。1隻の船に約1,200人とトラック100台、馬100頭それに約2カ月分の食糧、さらに兵器弾薬が積まれ、まったくお蚕さんの棚の中にいるみたいにすし詰めの状態で約1カ月敵の潜水艦をさけながらジグザグにコースをとり赤道直下の小さな島、ハルマヘラ島に上陸することになった。海岸からすぐにジャングルで、敵の空襲を避けるため、奥地に野小屋式の宿舎を3日程で建てた。少人数ごとの分宿で、炊事は小隊ごとに作った。ニューギニアを反改基地に、また何時でも前線に行ける態勢にせよとの命令が下った。しかしその時すでに海軍の山本五十六司令官は戦死して、南方前線の制海権はアメリカに握られつつあった。
任務は、海岸を少し入った所に塹壕を掘ることであった。赤道直下でスコップ、ツルハシでの作業、最初は人間がかくれる程度から段々深く通路もつくった。作業が限りなく続いた。また、後続の上陸してくる兵器糧秣を奥地へ運搬、部隊間の連絡路づくり、こんなことが半年近くも続いた。
ある日、突然敵の空爆を受けることになる。3日か4日に1回来るのみが段々多くなり、高射砲弾地から応戦、撃退もした。しかし1日に何度となくやってくるようになった。小銃と機関銃しか持たない我々はただ防空壕を深く強固なものにするのみ、やがて敵は我が島前方30mの島に上陸。今度は爆撃機だけでなく戦闘機まで極めて低空で機銃掃射を間断なくやる。そうなると昼間の行動がとれなくなりせっかく陸揚げされた多くの糧秣もほとんど爆破されてしまった。食糧に困難をきたしてきた。仕方なく、現地のパパイヤやタピオカが主食となりった。しかも昼間は空襲のため煙が出せないので夜中に壕の中で火がもれないように分隊ごとの炊事をしてしのいだ。こうなると分隊こそが生死を一つにしたもので、一心同体であった。一つ間違えば爆弾の直撃を受け、人手で掘った壕なんかひとたまりもなく全員がやられてしまう。
さらにジャングルはカが多くマラリヤにやられ、風土病のデング熱におかされ39度以上の高熱と下痢におかされ精神的にまいる者がではじめた。お互いに明日はどうなるかわからない。しかも暑さは赤道直下とてかつて経験したことのない真夏日の連続である。
こうした日々が続いたある日急に爆撃が少なくなってきた。おかしいぞ、敵の上陸作戦かと益々不安な日が4日程続いた。忘れもしない昭和20年8月19日早朝戦争が終わった、全面降伏だと知らされた。何とも言いようのない複雑極まりない一日だった。それから3日程して兵器一切を豪州兵に渡すよう指示された。すべては負けたのだ。まずは内地に帰りたい、しかし日本には我々を迎えにくるような船はないだろう、三年先か五年先か仕方がないと自活をはじめた。2カ月もすると結構なもので海で魚をとる者、海水から塩をつくる者、ヤシの実から油をとる者などどうにか食物に事欠かなくなったきた。しかしこんなこといつまで続くのか眠れない夜もあった。
それでも幸運がきた。昭和21年5月、アメリカの輸送船、リバティが迎えにきてくれた。田辺港に着き、DDTで消毒され体は真っ白、マラリヤの予防注射もした。
6月1日家に戻ると、両親が待っていてくれた。兄も帰ってきていたが、弟は昭和19年ビルマで戦死したと母がぽつりと言った。「弟が死んだがね」何ともいいようがなかった。それから間もなく母は寝込んでしまい、翌年亡くなった。私も2か月微熱で寝込んだ。マラリア後遺症だったのか。
異境の地で尊い命をなくし共に帰れなかった多くの戦友に心から鎮魂のまこを捧げたい。
これは男性の手記です。
あまりにも悲惨すぎます。
ハルマヘラ島からの帰還 ― 生死の境をかいま見て ー
戦後数十年、私達は二度と戦争をおこしてはならない。今平和に暮らしていける者の誓いである。今回の戦争で多くの尊い生命を失い例令生きて帰っても身体に大きな障害を受け苦しみながら短く人生を終わった人も、その多くは20歳前後から30歳代の若い人達であった。
私も2度の召集で、最初は、昭和13年9月3日敦賀の歩兵に入隊。中国の揚子江沿いに南京漢口岳州まで戦闘を交えながら進み、部隊の交代で内地に無事帰ることができた。しかしこの部隊はあの激戦の上海上陸作戦で多くの戦死者を出しており、細江でも多くの方が戦死された。私はその激戦の後に補充兵として参加した者で戦闘のすさまじさは九死に一生を経験された方から聞かされ、肉弾戦のすさまじさを知らされた。
2回目の召集は、昭和18年5月28歳のときで、結婚して4日目の朝に召集令状を受け取り、慌ただしく風呂敷包一つを持って鯖江の連隊に入った。「またか 男やったらしかたがない いずれはくるだろう」いう感じだった。面会が2回あり、両親が餅を持ってきてくれた。出発が決まって前々日くらいに両親が来てくれ、十分言えなかったけれど、これが最後かなと思った。
鯖江の連隊に入り間もなく九州の門司港より5千トン位の貨物船に乗り、我々兵隊には行き先も知らされないまま出航した。1隻の船に約1,200人とトラック100台、馬100頭それに約2カ月分の食糧、さらに兵器弾薬が積まれ、まったくお蚕さんの棚の中にいるみたいにすし詰めの状態で約1カ月敵の潜水艦をさけながらジグザグにコースをとり赤道直下の小さな島、ハルマヘラ島に上陸することになった。海岸からすぐにジャングルで、敵の空襲を避けるため、奥地に野小屋式の宿舎を3日程で建てた。少人数ごとの分宿で、炊事は小隊ごとに作った。ニューギニアを反改基地に、また何時でも前線に行ける態勢にせよとの命令が下った。しかしその時すでに海軍の山本五十六司令官は戦死して、南方前線の制海権はアメリカに握られつつあった。
任務は、海岸を少し入った所に塹壕を掘ることであった。赤道直下でスコップ、ツルハシでの作業、最初は人間がかくれる程度から段々深く通路もつくった。作業が限りなく続いた。また、後続の上陸してくる兵器糧秣を奥地へ運搬、部隊間の連絡路づくり、こんなことが半年近くも続いた。
ある日、突然敵の空爆を受けることになる。3日か4日に1回来るのみが段々多くなり、高射砲弾地から応戦、撃退もした。しかし1日に何度となくやってくるようになった。小銃と機関銃しか持たない我々はただ防空壕を深く強固なものにするのみ、やがて敵は我が島前方30mの島に上陸。今度は爆撃機だけでなく戦闘機まで極めて低空で機銃掃射を間断なくやる。そうなると昼間の行動がとれなくなりせっかく陸揚げされた多くの糧秣もほとんど爆破されてしまった。食糧に困難をきたしてきた。仕方なく、現地のパパイヤやタピオカが主食となりった。しかも昼間は空襲のため煙が出せないので夜中に壕の中で火がもれないように分隊ごとの炊事をしてしのいだ。こうなると分隊こそが生死を一つにしたもので、一心同体であった。一つ間違えば爆弾の直撃を受け、人手で掘った壕なんかひとたまりもなく全員がやられてしまう。
さらにジャングルはカが多くマラリヤにやられ、風土病のデング熱におかされ39度以上の高熱と下痢におかされ精神的にまいる者がではじめた。お互いに明日はどうなるかわからない。しかも暑さは赤道直下とてかつて経験したことのない真夏日の連続である。
こうした日々が続いたある日急に爆撃が少なくなってきた。おかしいぞ、敵の上陸作戦かと益々不安な日が4日程続いた。忘れもしない昭和20年8月19日早朝戦争が終わった、全面降伏だと知らされた。何とも言いようのない複雑極まりない一日だった。それから3日程して兵器一切を豪州兵に渡すよう指示された。すべては負けたのだ。まずは内地に帰りたい、しかし日本には我々を迎えにくるような船はないだろう、三年先か五年先か仕方がないと自活をはじめた。2カ月もすると結構なもので海で魚をとる者、海水から塩をつくる者、ヤシの実から油をとる者などどうにか食物に事欠かなくなったきた。しかしこんなこといつまで続くのか眠れない夜もあった。
それでも幸運がきた。昭和21年5月、アメリカの輸送船、リバティが迎えにきてくれた。田辺港に着き、DDTで消毒され体は真っ白、マラリヤの予防注射もした。
6月1日家に戻ると、両親が待っていてくれた。兄も帰ってきていたが、弟は昭和19年ビルマで戦死したと母がぽつりと言った。「弟が死んだがね」何ともいいようがなかった。それから間もなく母は寝込んでしまい、翌年亡くなった。私も2か月微熱で寝込んだ。マラリア後遺症だったのか。
異境の地で尊い命をなくし共に帰れなかった多くの戦友に心から鎮魂のまこを捧げたい。