8歳の姉が3歳の弟を背負い 朝鮮半島を歩いて縦断500㎞
テーマ:ブログ
2009/08/05 22:32
「終戦記念展 ~銃後のくらしと女性たち~」のパネル文章です。
悲しすぎます。長いですが最後までおつきあい下さい
8歳の姉が3歳の弟を背負い
朝鮮半島を歩いて縦断500㎞ 日本に帰国
Y,Mさん
私は、今の長浜市に生まれました。父は、日中戦争に皇居護衛の近衛歩兵として入隊しました。昭和天皇の即位のご大典時には、随行員として京都までお供しました。
父は、昭和7年頃満州に渡り、満鉄工事の現場監督をしていました。満鉄の事務には昭和初期の大歌手東海林太郎さんがいたそうです。その後父は、満鉄の副総裁・松岡洋右(のちの外務大臣)に見出されて、満州国日本大使館書記に任ぜられました。父が速記をしているのを見て、小さいながらも覚え、速記の読み書きができました。
幼稚園だった私は官舎から大使館のバスで園に通いました。部屋には、冷蔵庫もあり、御用聞きのおじさんが食品を入れに来ていました。リュックサックはセルロイドの高級なものでしたが、青い目の人形にあるような私はそれが嫌で嫌で父に「みなといっしょのを買って。」と言いました。父は「(大使館の者が)何言っている。」としかれらました。川へ落ちても、カバンだけは落とすなと言われていました。大使館の中の規律は厳しく、父もまた厳格な人でした。向こうは寒暖の差が激しく、夜道に水をまくと翌朝凍り、スケートができました。
昭和18年7月祖父が亡くなり、父1人が南満州鉄道「アジア号」に乗って帰ってきました。
昭和20年8月のある日、父が「今夜は靴をはいて寝よ。サイレンが鳴ったら家の中から外へ出るように。」と言いました。「何でかな。」と思いましたが父の言うことを聞いて靴を履いて、枕元には、セーラー服を入れたリュックを置きました。すると夜、爆弾が落ちてきました。リュックを持って飛んで出ました。「うちの家がもえてる。」と思わず叫びました。着の身着のままとはこういうことを言うのかなと離れた草むらのとこでリュックに入れておいた服に着替えたのです。父は、ソ連軍に連れていかれました。
汽車も動かないし、母は弟を背負い、私を脇に抱えて山岳地帯に逃げました。大使館に勤める家族らと一緒に山を歩くことになりました。先導は足の悪い人で、歩き疲れた私が「内地へいつ帰れるの。どこまで歩くの。」と聞きました。その人は「平壌へ着いたら日本の人が送ってくれるから頑張ろう。」と言いました。
昼は洞窟に潜んで寝て、夜に歩いて少しずつ逃げていきました。歩いて歩いて、ひたすら歩きました。前を行く人の足音を頼りに歩きました。この暗闇の行進は5カ月だったのか、6カ月だったのか、際限もなく毎日毎日歩き続けました。今考えてもどうしてろくに食べずにそんなことができたのかわかりません。
女の人は、男の人のズボンを履いて、丸坊主、男か女か区別がつきませんでした。向こうの山はとんがっていて、下から渦のようにして歩きました。ソ連の兵隊がくると逃げるようにと笛1つ用意されていました。子どもは50人くらいいたと思います
避難集団は、どんどん疲弊し、やせ衰え、老人子供達の数が目に見えて減っていきました。朝になるたびに集団の規模が小さくなっていきました。そんな生活がしばらく続くと、大人も自分のことだけで精一杯になってくるんです。子供だけが置いていかれて泣いているのも見ました。昼間寝ている間に、子どもを木にくくりつけて、自分だけ逃げてしまうような、大人は自分さえよければいいんだなとその時思いました。母には、「昼は言うことをきいて寝るから捨ててかんといてな。じいちゃんと帰ってくる約束したので、じいちゃんが待ってるでな。」と言いました。私はどうしてでも日本へ帰りたいと思っていました。
ある日、目を開けると乾パンとおむつと着替えが山のように積まれていました。寝ている間に、大使館仲間の一人のおばさんが母に「いつまで連れていくんや。」と言っているのをかすかに聞いていました。母も仕方なかったのか、私と弟を捨てたのです。同じ場所でワァワァ泣きました。地獄を見たようでした。
まだハイハイしていた弟に乾パンを食べさせました。便にそのままの形で乾パンが出てきてしまいました。私は口の中でかんで、やらかくしてあげました。夏場だったので山にどんぐりやらでき、木の実をとって苦くないものだと弟に食べさせました。おむつは汚れると捨てていました。小さいから洗うというそんな知恵もありません。とうとう残り1枚になってしまいました。山の上から下を見るとおむつが落ちていたのが見えました。それからは、おむつが乾くまで、待って山を歩きました。何とか他に考えることができたでしょうが、まだ小さかったので、それくらいのことしかできませんでした。
おじいさんから「おばすて山」の話を聞いたことを思い出しました。おばあさんが枝を折って落としたことをふっと思い出したのです。私も枝を折って行こうと、通ったとこがわかるからとそれからは枝を折って歩きました。お母さんがいないんだったら自分たちで逃げるしかないと堅い決心をして、自分で歩けることが幸いでした。
夕方歩いていたら、弟をおぶっていた背負い紐が切れ、弟を落としてしまいました。自分のリュックを持って、弟をだっこして、山を降りることは至難の技です。弟の足が山につかえてしまうのです。弟が「マンマ マンマ」と言うので、自分のつばをすわせました。でもじきに「マンマ マンマ」と言ってきます。「ああ今夜は歩くことも、じいちゃんとの約束も守れないな。」とうずくまって泣き崩れるほかありませんでした。すると目の先に豆づるがありました。
日本でじいちゃんが縄をぬっているのを思い出しました。見よう見まねで豆づるで幾重にも縄をぬって背負い紐にしました。豆づるが弟の足にすれ、私も裸足で歩いて足から血が出ていました。寝ていても、血がでているところにハエが入ってきました。それがなかなか気づかずに弟のことで頭がいっぱいでした。気持悪くて目をさますこともありました。
「マンマ」と「ワンワン」しか言えなかった弟が私を支えてくれました。背負って歩いていると、弟が私の首を両手でつかんで、私の顔が見えるとこまでぐうっとのぞくんです。そしてにこっと笑う。弟がなごましてくれて、弟には本当に感謝しています。弟がいたから、この子を守らんならんと思えたから生きて帰れたと思います。
洞窟を探しては、弟と休みました。ある日、獣の鳴き声が近くで聞こえました。声を立てるとだめだと聞いていたので、弟の上にまたがり、口をおさえてじっとしていました。すると私の首を何かが舐めて行きました。怖い思いをしました。翌朝目を覚ますと、洞窟の入り口に木の実やら食べ物がたくさん置いてありました。じいちゃん、ばあちゃんから仏さんを拝むように言われていた私は、仏さんが恵んで下さったお蔭やなと、しばらくその洞窟にいました。帰国してから祖母や親類にその話をする時、恐ろしさで私が手をぶるぶるとふるわせましたので、その後は親類の人もその話を私に聞かないようにされました。
またしばらく行くと、ジープが山を上がってきました。ソ連の兵隊が降りてきました。もうあかんと思い「ごめんなさい。助けてください。」と弟を強く抱きしめました。すると初年兵の人が、私と弟をぎゅっと抱きしめてくれたのです。あの兵士は、きっと弟を抱えて必死な形相の私の姿を見て、言葉は通じなくても、兵士の胸を打ったのでしょう。栄養失調でお腹がポコンと出ている私たちを車に乗せてくれました。病院が見えてきました。
弟も私も栄養失調で歩けない状態でした。後から聞くと、私は短い寿命でもうだめで、弟はなんとか助かると言われていました。病院では、治療を受けチョコレートやら甘いおかしを豊富にいただきました。歩行練習をしたら良いと言われ、病院内を歩きました。鉄格子があり、中に女の人がいっぱいいる部屋がありました。山で私たちをいつまで連れていくのと言ったあのおばさんがいました。チョコレートやらを手に持っていたので「ねえちゃんちょうだい。ちょうだい。」と鉄格子の中からおばさんが手を出してきました。おばさんは「あの時どうしたん。」と言ってきました。私もその顔をしっかり覚えていて意地の悪い、手の届かんどこで食べて見せ、あげなかったのです。
住所は、小さいからどこやということが言えず、平壌(ピョンヤン)の駅で、石炭をつむトロッコに兵隊が私らを立たせ、「この子らの親はいませんか。」と何日も探してくれました。ある日「私の子どもです。」と母が名乗り出てきました。そこで劇的な再会をしました。母は「お母さん、捨ててもてごめんな。あんたと弟に会えたことだけはうれしいけど、内地に帰るのがこわい。」と言っていました。私にしたら幼い子ども2人を捨てて何でという思いで許せませんでした。
内地に母と私と弟と3人で帰ってきました。母が「かえってきたんや。」と言うと、「ああきたな。おばけみたいや。」とおばあちゃんに言われたことは、今でも忘れません。内地に帰ってきても、勉強が同級生についていけなく、向こうではカタカナしか習っていませんでした。また山を歩き足が悪くなっていて、村の病院に通っていました。漢字も割り算、足し算、九九もわからない。本も読めず、学校へ行くのが嫌でした。おばあちゃんがお砂糖の袋をもらってきて蚊帳の中に今日は五の段からと書いて張ってくれ、親戚の学校の先生に勉強を教えてもらい、頑張って努力賞をもらうほどになりました。
今思っても、なんちゅう人生、山の中を歩いたでか、何としてでも生きて帰るという気持ち、悪い強さ、我が強くなりました。母に捨てられたことは本当にショックでした。言うことを聞いて昼間遊びたいのに寝たのに・・。だまって捨ててごめんなさいというけど・・、母がこの気持ちをわかっていたら捨てられんと思います。弟を見んならんという思いがありました。学校へ行ってもいくら頑張ってもなかなか追いつけなかった。
母は心労が重なり、実家で養生していましたが、昭和23年4月亡くなりました。弟も同年1月に亡くなりました。泣けて泣けて、涙が枯れ果てました。
絶対戦争だけはしてはいけません。痛いほど体験しました。心に大きな傷を残し、ソ連兵はこわいとよく思っていませんでしたが、兵士の中には私達を助けてくれた立派な人もいたのです。きっと心ある人はいる。言葉が通じなくても、自分の真実で「本当にごめんなさい。」と言ったら相手に心は読めたんだなとつくづく思い、戦争だけはやめて欲しい。孫子の代まで、永遠に伝えたいと思います。
孫が3歳の時には弟を必死な思いでおぶって、その弟の姿を思い出し、また孫が8歳になった時には、こんな小さな体でよくも弟をおんぶできて、何百キロも歩けたものだと思うと、家族に隠れて号泣しました。そして、孫と私をオーバーラップさせますと孫は「ばあちゃん泣いたらもう来ないよ。」とよくなぐさめてくれます。
現在の幸せを、神仏に報恩感謝して、毎日送らせていただいています。最後に戦争は、金輪際してはいけない、私1人で十分です。これだけは伝えたいと思います。
悲しすぎます。長いですが最後までおつきあい下さい
8歳の姉が3歳の弟を背負い
朝鮮半島を歩いて縦断500㎞ 日本に帰国
Y,Mさん
私は、今の長浜市に生まれました。父は、日中戦争に皇居護衛の近衛歩兵として入隊しました。昭和天皇の即位のご大典時には、随行員として京都までお供しました。
父は、昭和7年頃満州に渡り、満鉄工事の現場監督をしていました。満鉄の事務には昭和初期の大歌手東海林太郎さんがいたそうです。その後父は、満鉄の副総裁・松岡洋右(のちの外務大臣)に見出されて、満州国日本大使館書記に任ぜられました。父が速記をしているのを見て、小さいながらも覚え、速記の読み書きができました。
幼稚園だった私は官舎から大使館のバスで園に通いました。部屋には、冷蔵庫もあり、御用聞きのおじさんが食品を入れに来ていました。リュックサックはセルロイドの高級なものでしたが、青い目の人形にあるような私はそれが嫌で嫌で父に「みなといっしょのを買って。」と言いました。父は「(大使館の者が)何言っている。」としかれらました。川へ落ちても、カバンだけは落とすなと言われていました。大使館の中の規律は厳しく、父もまた厳格な人でした。向こうは寒暖の差が激しく、夜道に水をまくと翌朝凍り、スケートができました。
昭和18年7月祖父が亡くなり、父1人が南満州鉄道「アジア号」に乗って帰ってきました。
昭和20年8月のある日、父が「今夜は靴をはいて寝よ。サイレンが鳴ったら家の中から外へ出るように。」と言いました。「何でかな。」と思いましたが父の言うことを聞いて靴を履いて、枕元には、セーラー服を入れたリュックを置きました。すると夜、爆弾が落ちてきました。リュックを持って飛んで出ました。「うちの家がもえてる。」と思わず叫びました。着の身着のままとはこういうことを言うのかなと離れた草むらのとこでリュックに入れておいた服に着替えたのです。父は、ソ連軍に連れていかれました。
汽車も動かないし、母は弟を背負い、私を脇に抱えて山岳地帯に逃げました。大使館に勤める家族らと一緒に山を歩くことになりました。先導は足の悪い人で、歩き疲れた私が「内地へいつ帰れるの。どこまで歩くの。」と聞きました。その人は「平壌へ着いたら日本の人が送ってくれるから頑張ろう。」と言いました。
昼は洞窟に潜んで寝て、夜に歩いて少しずつ逃げていきました。歩いて歩いて、ひたすら歩きました。前を行く人の足音を頼りに歩きました。この暗闇の行進は5カ月だったのか、6カ月だったのか、際限もなく毎日毎日歩き続けました。今考えてもどうしてろくに食べずにそんなことができたのかわかりません。
女の人は、男の人のズボンを履いて、丸坊主、男か女か区別がつきませんでした。向こうの山はとんがっていて、下から渦のようにして歩きました。ソ連の兵隊がくると逃げるようにと笛1つ用意されていました。子どもは50人くらいいたと思います
避難集団は、どんどん疲弊し、やせ衰え、老人子供達の数が目に見えて減っていきました。朝になるたびに集団の規模が小さくなっていきました。そんな生活がしばらく続くと、大人も自分のことだけで精一杯になってくるんです。子供だけが置いていかれて泣いているのも見ました。昼間寝ている間に、子どもを木にくくりつけて、自分だけ逃げてしまうような、大人は自分さえよければいいんだなとその時思いました。母には、「昼は言うことをきいて寝るから捨ててかんといてな。じいちゃんと帰ってくる約束したので、じいちゃんが待ってるでな。」と言いました。私はどうしてでも日本へ帰りたいと思っていました。
ある日、目を開けると乾パンとおむつと着替えが山のように積まれていました。寝ている間に、大使館仲間の一人のおばさんが母に「いつまで連れていくんや。」と言っているのをかすかに聞いていました。母も仕方なかったのか、私と弟を捨てたのです。同じ場所でワァワァ泣きました。地獄を見たようでした。
まだハイハイしていた弟に乾パンを食べさせました。便にそのままの形で乾パンが出てきてしまいました。私は口の中でかんで、やらかくしてあげました。夏場だったので山にどんぐりやらでき、木の実をとって苦くないものだと弟に食べさせました。おむつは汚れると捨てていました。小さいから洗うというそんな知恵もありません。とうとう残り1枚になってしまいました。山の上から下を見るとおむつが落ちていたのが見えました。それからは、おむつが乾くまで、待って山を歩きました。何とか他に考えることができたでしょうが、まだ小さかったので、それくらいのことしかできませんでした。
おじいさんから「おばすて山」の話を聞いたことを思い出しました。おばあさんが枝を折って落としたことをふっと思い出したのです。私も枝を折って行こうと、通ったとこがわかるからとそれからは枝を折って歩きました。お母さんがいないんだったら自分たちで逃げるしかないと堅い決心をして、自分で歩けることが幸いでした。
夕方歩いていたら、弟をおぶっていた背負い紐が切れ、弟を落としてしまいました。自分のリュックを持って、弟をだっこして、山を降りることは至難の技です。弟の足が山につかえてしまうのです。弟が「マンマ マンマ」と言うので、自分のつばをすわせました。でもじきに「マンマ マンマ」と言ってきます。「ああ今夜は歩くことも、じいちゃんとの約束も守れないな。」とうずくまって泣き崩れるほかありませんでした。すると目の先に豆づるがありました。
日本でじいちゃんが縄をぬっているのを思い出しました。見よう見まねで豆づるで幾重にも縄をぬって背負い紐にしました。豆づるが弟の足にすれ、私も裸足で歩いて足から血が出ていました。寝ていても、血がでているところにハエが入ってきました。それがなかなか気づかずに弟のことで頭がいっぱいでした。気持悪くて目をさますこともありました。
「マンマ」と「ワンワン」しか言えなかった弟が私を支えてくれました。背負って歩いていると、弟が私の首を両手でつかんで、私の顔が見えるとこまでぐうっとのぞくんです。そしてにこっと笑う。弟がなごましてくれて、弟には本当に感謝しています。弟がいたから、この子を守らんならんと思えたから生きて帰れたと思います。
洞窟を探しては、弟と休みました。ある日、獣の鳴き声が近くで聞こえました。声を立てるとだめだと聞いていたので、弟の上にまたがり、口をおさえてじっとしていました。すると私の首を何かが舐めて行きました。怖い思いをしました。翌朝目を覚ますと、洞窟の入り口に木の実やら食べ物がたくさん置いてありました。じいちゃん、ばあちゃんから仏さんを拝むように言われていた私は、仏さんが恵んで下さったお蔭やなと、しばらくその洞窟にいました。帰国してから祖母や親類にその話をする時、恐ろしさで私が手をぶるぶるとふるわせましたので、その後は親類の人もその話を私に聞かないようにされました。
またしばらく行くと、ジープが山を上がってきました。ソ連の兵隊が降りてきました。もうあかんと思い「ごめんなさい。助けてください。」と弟を強く抱きしめました。すると初年兵の人が、私と弟をぎゅっと抱きしめてくれたのです。あの兵士は、きっと弟を抱えて必死な形相の私の姿を見て、言葉は通じなくても、兵士の胸を打ったのでしょう。栄養失調でお腹がポコンと出ている私たちを車に乗せてくれました。病院が見えてきました。
弟も私も栄養失調で歩けない状態でした。後から聞くと、私は短い寿命でもうだめで、弟はなんとか助かると言われていました。病院では、治療を受けチョコレートやら甘いおかしを豊富にいただきました。歩行練習をしたら良いと言われ、病院内を歩きました。鉄格子があり、中に女の人がいっぱいいる部屋がありました。山で私たちをいつまで連れていくのと言ったあのおばさんがいました。チョコレートやらを手に持っていたので「ねえちゃんちょうだい。ちょうだい。」と鉄格子の中からおばさんが手を出してきました。おばさんは「あの時どうしたん。」と言ってきました。私もその顔をしっかり覚えていて意地の悪い、手の届かんどこで食べて見せ、あげなかったのです。
住所は、小さいからどこやということが言えず、平壌(ピョンヤン)の駅で、石炭をつむトロッコに兵隊が私らを立たせ、「この子らの親はいませんか。」と何日も探してくれました。ある日「私の子どもです。」と母が名乗り出てきました。そこで劇的な再会をしました。母は「お母さん、捨ててもてごめんな。あんたと弟に会えたことだけはうれしいけど、内地に帰るのがこわい。」と言っていました。私にしたら幼い子ども2人を捨てて何でという思いで許せませんでした。
内地に母と私と弟と3人で帰ってきました。母が「かえってきたんや。」と言うと、「ああきたな。おばけみたいや。」とおばあちゃんに言われたことは、今でも忘れません。内地に帰ってきても、勉強が同級生についていけなく、向こうではカタカナしか習っていませんでした。また山を歩き足が悪くなっていて、村の病院に通っていました。漢字も割り算、足し算、九九もわからない。本も読めず、学校へ行くのが嫌でした。おばあちゃんがお砂糖の袋をもらってきて蚊帳の中に今日は五の段からと書いて張ってくれ、親戚の学校の先生に勉強を教えてもらい、頑張って努力賞をもらうほどになりました。
今思っても、なんちゅう人生、山の中を歩いたでか、何としてでも生きて帰るという気持ち、悪い強さ、我が強くなりました。母に捨てられたことは本当にショックでした。言うことを聞いて昼間遊びたいのに寝たのに・・。だまって捨ててごめんなさいというけど・・、母がこの気持ちをわかっていたら捨てられんと思います。弟を見んならんという思いがありました。学校へ行ってもいくら頑張ってもなかなか追いつけなかった。
母は心労が重なり、実家で養生していましたが、昭和23年4月亡くなりました。弟も同年1月に亡くなりました。泣けて泣けて、涙が枯れ果てました。
絶対戦争だけはしてはいけません。痛いほど体験しました。心に大きな傷を残し、ソ連兵はこわいとよく思っていませんでしたが、兵士の中には私達を助けてくれた立派な人もいたのです。きっと心ある人はいる。言葉が通じなくても、自分の真実で「本当にごめんなさい。」と言ったら相手に心は読めたんだなとつくづく思い、戦争だけはやめて欲しい。孫子の代まで、永遠に伝えたいと思います。
孫が3歳の時には弟を必死な思いでおぶって、その弟の姿を思い出し、また孫が8歳になった時には、こんな小さな体でよくも弟をおんぶできて、何百キロも歩けたものだと思うと、家族に隠れて号泣しました。そして、孫と私をオーバーラップさせますと孫は「ばあちゃん泣いたらもう来ないよ。」とよくなぐさめてくれます。
現在の幸せを、神仏に報恩感謝して、毎日送らせていただいています。最後に戦争は、金輪際してはいけない、私1人で十分です。これだけは伝えたいと思います。
明日はLIVE IN 川崎や
テーマ:ライブ告知
2009/08/05 11:46
今日の花火大会が雨で順延されたらどうしようかと思っていました。
いいお天気ですね。ほっとしました。
さて、明日は『LIVEIN川崎や』でございます。
まだもう少し席がございますよ
前売り2500円という川崎やでは高額なLIVEですが、それだけの値打ちはあると確信しています。
いつものようにフリードリンクです。自家焙煎コーヒーの水出しもございます。すごくまろやかです。
今朝、コーヒーを焙煎しました。焙煎して2日後が美味しいのです。
コロンビア50% ガテマラ20% ブラジル30%のまーぼうブレンドです。
ミニ抽選会もございます。
お楽しみくださいませ
いいお天気ですね。ほっとしました。
さて、明日は『LIVEIN川崎や』でございます。
まだもう少し席がございますよ
前売り2500円という川崎やでは高額なLIVEですが、それだけの値打ちはあると確信しています。
いつものようにフリードリンクです。自家焙煎コーヒーの水出しもございます。すごくまろやかです。
今朝、コーヒーを焙煎しました。焙煎して2日後が美味しいのです。
コロンビア50% ガテマラ20% ブラジル30%のまーぼうブレンドです。
ミニ抽選会もございます。
お楽しみくださいませ