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五つの畏おそれ

テーマ:仏願寺住職のお話
「生死(せいし)」とは字の通り「生」と「死」を表し、それに対し「生死(しょうじ)」とは生から死にいたるまでの苦悩と迷いを表します。
その「生死(しょうじ)」の畏(おそ)れを仏教では五怖畏(ごふい)と示します。
不活畏、悪名(あくみょう)畏、悪道畏、死畏、大衆威徳(だいしゅういとく)畏で、人間が生きていく中での五つの畏れです。

私たちは健康で長生きしたいという、生を肯定した日々の生活ですが、同時に、その生の肯定には生の不確かさ不安を抱えています。
つまり死に向かっての日常生活の中で現れてくる不安、畏れです。

まず一つは不活畏、このままで生きていけるだろうかという畏れです。
(かく)首や老後の不安等々により、現在も未来も不安なのです。
毎年三万人ほどの自殺者があることが、これを表しています。

二つには悪名畏、関係性の中で生きている人間は、自分の名、評判が気になる、自分がどう思われているかという畏れです。
とくに面子に拘(こだ)わる人にとっては大問題です。

三つには悪道畏、たとえば不治の病いに罹(かか)ったり、不慮の事故に遭うことです。
なぜ私だけが、こういうことに遭わなければならないのかという畏れです。
しかし、これは日常性の中に埋没して忘れており、当事者になってはじめて分かるものです。

四つには死畏、死への畏れです。
みんなにある不安ですが、不治の病に罹ったり、高齢化しないと実感が湧きません。

そして五つには大衆威徳畏、一人毅然(きぜん)として生きていこうとしても周りが気になる。
流行などもそうだが、人が自分のことをどう思っているのかと周囲が気になってしまう、そういう畏れの中に生きています。
そのように生死(しょうじ)は五怖畏という形をとって、私たちの日々の生活の中にあらわれています。

そこで起きる現象が、一つのグループ(仲間)に属し、一定の規律と忍耐の中で安穏と生きてゆくか、人から孤立して周りを無視して生きてゆくか、前二者の中間で適当に泳いで生きて行くか、また何ものにもとらわれず毅然として生きて行くかの四つに別れる。

グループ化は、当然排他的にならざるをえなくなり、例えば若者は習俗に染まりきった旧習の土地を離れて都会に行き、アパート、マンション、核家族生活を求める。
もちろんそれは職業の問題もあるが、種々の因襲から解放され、ある意味で精神的自由である。
結果、地方の三世代的世帯は減少し、老夫婦もしくは孤独な所帯となってくる。
当然孤独死などの問題が起きてくる。
また、都会に流入した若者も、近隣との絶関係で自由に生きているように思えるが、「山の中でなく街の中の孤独」を感じ、その為には、何らかの趣味に耽(ふけ)ったり、ただひたすら働き、いや働いている自分を感じていなければならないのだろうし、ある面では寂しい。
当然孤立している人も寂しいだろうし、孤立死というおぞましい未来が見えてくるであろう。
また、グループと孤独の中間の中、適当に人生を生きている人々にとっては、それら二つからの畏れを忘れる為には、ただ金や権力などによる、虚偽の安住しかないであろう。
それらを超えたものが宗教であり、毅然として何ものにも煩わせないで生きて行くことである。

宗教とは、教えを宗とする道である。
教えとは法である。
法は現実社会にもあるが、その法は規則である。
自分が不利にならないよう、学ぶのである。
宗教の法は、生きてる喜びを確認するためのものである。
自分を守護する現実社会の法で、守護を超越した宗教の法が分かるはずがない。
だから現代人は、金や物がなくても得られる喜びを知らないし、求めようともしない。
寂しいことである。
同じ法でも、雲泥の差がある。
だから現代人には、真の法が難解であり、必要ともしない。

ネット帝国主義

テーマ:仏願寺住職のお話
団塊世代の私にとっては、帝国主義という言葉は耳に懐かしい。
新聞でもテレビでも、また大学でも、帝国主義という言葉によって、アメリカ帝国主義を打倒し、真の理想社会主義国家確立という言葉に酔いしれたものである。

帝国主義とは、一つの国家が、自国の民族、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策のことである。
イスラム教の政教一元論のもと領土拡大を謀ったオスマン帝国、政教分離をいうものの実際にはキリスト教を全面に掲げた西欧諸国の植民地主義などはその典型であり、宗教を利用し、文化・習慣まで征服してしまったといっていい。
その点、仏教は帝国主義的ものはなく、宗教的伝播でしかなかった。

目を歴史全体に見ると、古代における地方部族間闘争、中世における国家間の戦争もその一種である。
ましてや近世における植民地主義は帝国主義そのものといえるだろう。
そして、第一次・第二次世界大戦は、植民地主義とそれへの反対勢力との戦いであったといってよい。
しかし、第二次世界大戦終了後は、国連という世界の目もあり、露骨な植民地主義的帝国主義はなくなったといえるだろう。

しかし、意識しないところで、軍事力によらず、テレビ・映画・雑誌等のメディアによる、悪くすると洗脳操作により、政治・経済・文化等を支配する、目に見えない帝国主義が発生した。
戦後、バブルに日本が浮かれている時、アメリカによってなされた帝国主義である。
いや終戦後まもないころのパンと牛乳による給食もそうであった。
ジェームズ・ディーンが映画でジーンズ姿になり、オールドヘップバーンがティファニーの宝飾品をつけるとそれらが全世界に流行するというものである。
コマーシャルではあるが、影像洗脳による経済・文化征服ともいえる。

もっと巧みなものは、心理学利用したのもある。
例えば、サブリミナル効果である。
一分間二十四コマのフィルムの中に一コマ、コーラ等の清涼飲料水を入れると、目には見えなくても、ついついそれが飲みたくなるというものである。
他にも種々あるそうであるが、私は知らない。
これらを情報帝国主義というのだそうである。
もちろん、それらの方法は現在禁止されているようではあるが。

ところで、現在はネット帝国主義というのだそうだ。
コンピューターのハード面では、日本等のアジアが一歩も二歩も進んでいるが、それを起動する為のインテルCPUやマイクロソフトウィンドウズはアメリカ製であり、莫大な利益がアメリカのものになっている。
また広告もネットが新聞を超え、テレビをも超えんとしている。
雑誌や書籍のような紙の媒体も圧迫されている。
その上、ネットで流される政治・経済情報は世界を席巻するばかりである。

目に見える帝国主義が、目に見えなくなったが、現在では目に見えるものの、その本当の目的が分からない。
しかも、その内容と方法を教わっても、それの上を行く方法があれば、もうお手上げである。

ネットを利用し欲望にまっしぐらな人間が栄える。
本当に恐ろしい現代社会になったといわざるを得ない。

孝と忠と日本文化

テーマ:仏願寺住職のお話
堯舜(ぎょうしゅん)とは、中国古代の伝説上の帝王のことである。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされている。
堯には子供がいたが、優秀な舜に帝王の位を譲る。
しかし、舜の父親はいわゆる泥棒であった。
その事について儒学者孟子の弟子が、舜が帝王になった時、もし舜の父親が泥棒をすればどうなるかで議論をするが結論がでず、師匠である孟子に聞くと、舜は帝王の位を捨てて深い山か海岸まで逃げて二人で暮らすだろうと答える。
つまり、中国の儒教は忠より孝のほうが上である。

中国では中華人民共和国以前は、幇(ホウ・パン・バン)という同族・同郷団体があり、それぞれが姓を同じにして一つの国を形成していた。
周りを土塀で囲み、自分たちで身を守り、その中心が一族の長で、国構えに王・玉で、国の字のもとになった。
従って考え方の中心は孝であった。

それに較べて日本では、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」の如く、忠と孝が同じ重みをもっている。
しかし戦国時代の下克上を通して、家臣による謀反を用心し、給金(米)と忠義、つまりアメとムチによる武家社会成立になった。
また一般庶民は、忠孝共に家社会を護るためには必要であったのであるが、士農工商などの身分制度の根本のもと、習俗として種々の束縛(忠義)があったのであろう。
結局のところ忠のほうを重視した。
赤穂浪士の討ち入りなどはその典型であり、忠を重視の幕府としては対処に苦悩した。

次に明治時代になると、「大御心(おおみこころ)」という絶対的忠の方が重みを持つことになる。
もちろん孝も大事であったが、忠の方がより重大であった。
父母がいくら病気でも赤紙がくると、召集されてしまう。
それが、昭和二十年八月十五日になり忠はほとんど消え去り、孝も薄れてきたのが現在である。
つまり日本文化を儒教から考えると、本来は孝重視の儒教が日本に伝わり忠孝並列の文化から、忠重視、そして共に重視されない文化へと変遷したことになる。

また別の文化論では、天皇(シャーマン)による神との言葉の力による国民支配文化から、鎌倉時代以降の力(武力)による文化、明治になってからの天皇による言葉と力による文化、そして戦後の資本主義(金)という力による文化、そして現在では情報という力へと変遷していった。

忠孝のなくなった現在社会は、力も情報という迷いを基本としている。
ほんとうに未来はどうなるのか不安すら感じないほどである。
結果、孤独死・年金問題・原発問題・地球温暖化等々、どうしようもない問題があまりにも多い。

もう一度忠孝を重視しようというのも難しいし、情報(迷い)整理は難解である。困ったものである。

劫濁(こうじょく)とは

テーマ:仏願寺住職のお話
親鸞は大師号、見真大師という。
明治九年十一月二十八日に明治天皇より諡号(しごう)(贈り名)を追贈されたのである。
見真とは、「慧眼見真、能度彼岸」(慧眼真を見て、能よく彼岸に度(いた)る)からきている。
智慧の眼は真実を見て、結果、浄土を感得できるとの意味である。
親鸞の生涯を考慮して付けられた諡号であろう。

ところが親鸞は自分のことを愚禿(ぐとく)だという。
法然上人は愚痴の法然房、最澄は愚中極愚(ぐちゅうのごくぐ)、狂中極狂(おうちゅうのごくおう)、塵禿有情(じんとくのうじょう)、底下(ていげ)の最澄とまでいっている。
その他の師も、大半が自分のことは愚かといっている。
どの師も学問は極言に近いほどであるにも拘わらず、愚かと言っている。

それに引きかえて、現在の学者は偉いようである。
それは戦後の学問が影響しているのであろう。
すべて発展前進すればいいとの思想が根本にある学問である。

しかしながら、同じ学問をしながら正反対のことで争っているのを見ると、何か矛盾を感じる。
つまり真実が何なのか不明なのである。
そこに政治・経済が入り込むとよけい複雑である。
例えば、原発賛成と反対のように。

結果毎日のニュースを見ていると劫濁(五濁の一つで、世の汚れ)を感じずにはおれない。
孤独死・孤立死しかり、霊感商法、オレオレ詐欺等々しかりである。
また、避難所ではあまりなかった自殺が仮設住宅では増加するという人間心理に対応できない行政と心理学者もしかりである。
みんな研究を積み重ねてきているにも拘わらず、それに対応できない学者と行政には失望を感じる。

戦後、高度経済成長時代を通じて日本の家族構成が多世代同居型から核家族型に変化。
子どもの独立後、夫婦二人そしてその後一人という構成の世帯が増加し、退職後は地域や社会から孤立した暮らしになりがちである。

居住形態の変化核家族化の進行による小家族化や大都市地域における借家住まいやマンション居住が急増。
近所づきあいのわずらわしさから逃れ、匿名性は確保できるが、孤立した暮らしになることはわかっていたのではないか。
貨幣経済の中、日本人が選んだ社会とはいえ、そのマイナス部分を研究することはできなかったのであろうか。

日本古来の偉人は、学問をすればするほど愚を感じた。
現在は学問をすればするほど偉くなっている。
ここに、一般民衆を救済するのに大きな差があるのではないかと思える。

すべて便利なものは、必ずその裏に不便がある。
愚とは便不便ともに伝える学問ではないかと思う。
不便を隠した学問はもういい。
便不便共に伝える学問・政治が欲しい。
そして、その上で人間の幸福を考えて欲しいものである。

「絆」と「関係」Ⅱ

テーマ:仏願寺住職のお話
先月、「絆」について少し述べたが、その後ある本を読んだところ、もう少し述べてみたくなった。

その本とは、大阪大学名誉教授・中国哲学史の加地伸行氏の本『儒教とは何か』である。
この本は中公新書で読みやすく、ついつい一気に読んでしまった。

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性により五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教え、倫理・政治・社会思想のように考えられ宗教性はないと思われているが、そうではないと氏はいう。
儒教にも宗教性はあり、それは孝ということでとらえられ、その孝は、過去・現在・未来にわたり三世を貫いているという。

過去に関しては、自分の先祖の供養、自分の命の本源である先祖を大事にし供養すること。
現在は、現在の親に対しての孝行、そして目上の者を大事にすること。
未来に関しては、子孫を残すことが孝であると説く。
同時に、先祖供養は儒教であって仏教ではないと厳しいことをいわれています。
確かに仏教は先祖供養を方便として、その方便によって真実を説くものであるが、江戸時代の檀家制度によって方便の上にあぐらをかき、真実を説くことをないがしろにした傾向はある。
反省すべきであろう。

勿論、孝を説くのは儒教に限らず、世界中の宗教・習俗も説く。
そして死者儀礼・先祖供養を行う。
特に東南アジアは儒教の影響を受けてそれらの儀礼は丁寧であり、親孝行も重厚である。

ところで、孝を考えてみるに、まず先祖供養についてであるが、地方はまだしも都会では希薄になってきたようである。
聞くところによると、火葬場から寺に直行、永代経を納め、その後一切知らぬ存ぜぬが増えたそうである。
また葬儀も、病院から即火葬場に併設された式場に運ばれ、インターネットで僧侶を請い、そこで簡素な式後、即火葬という直葬という段取りもあるとか。

また孤独死の場合は、火葬後そのお骨を、預かって頂ける寺院に宅急便で送るのだそうである。
なんとも寂しいことである。

次に現在の孝であるが、現実の状況は成人すると親の元を離れ新しい生活を営む。
勿論、就職場所を考えると仕方がないであろうが、長男をも含む子供達全部が離れていては、親孝行は不可能である。
その上、片親だけになると裕福な者は養老院に親を入所さすが、そうではない者はそのままで、結果、孤独死もありうる状況である。
親孝行という言葉も死語になりつつ。

最後に未来についてであるが、子孫を残すこととはいうものの、少子化により長男長女の結婚もあり、その場合はどちらかの氏の子孫はなくなることになる。
長男長女以外の結婚とはいっても離婚が多く、なんとも寂しい。いわゆる「家」というものが崩壊しているのである。

全世界、宗教に限らず「孝」はある。
現在でも多くの国では生きている言葉である。
ただ日本の場合は、敗戦後、それまでの束縛的「絆」への嫌悪感から、自由主義という名のもと「孝」というものまでも捨ててしまったのかも知れない。
古くさいといわれるかも知れないが、「孝」というものを考えて欲しいものである。
「孝」を死語にしてはならない。
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