北陸線の思い出をきかせてください

テーマ:今日の編集室・取材話
ながらく更新がとだえていましたm(_ _)m メイです。
1年ぶりにのこのこ出てきたのは、みなさんにぜひ語っていただきたい話題があるからです。

ぱんやさんも書いてくださってますが、地域情報誌「み〜な」120号では、敦賀・長浜間の北陸本線を取りあげます。
そこで、現在のルートとともに、今はほとんどが道路となっている柳ヶ瀬線もふくめ、駅や汽車などの思い出をおききしたいと思っています。

中之郷

写真は余呉町中之郷に残る駅跡。ほんの50年ほど前までここを汽車が走っていたのです。


ご自身の経験、おじいちゃんやおばあちゃんから聞いた話などおもに昭和なネタを語ってくださいな。
駅の思い出とともに当時の湖北のようすや、くらしの風景などの記憶を記録しておきたいと思います。
よろしくお願いいたしますニコニコ(女の子)


☆わたしの思い出(の一部)
 同級生に国鉄マン家庭の子が何人かいて、修学旅行前になると特別な対応がありました。旅費が格安になったんかなぁ?

 蓮池踏切(?)に、踏切番のおじさんがいたような記憶があります。遮断機が手動? そこまでは覚えてません汗(女の子)


お寄せいただいたコメントを誌面に掲載させていただくときは、紙幅の都合によって多少手を加えさせていただく場合があります。ご了承ください。



コメント

  1. 2013/10/23 12:26
    長浜かと思って降りたらそこは河毛でしたわ
    酔っぱらって寝過ごしただけです
    そら、昔やなくて今の話やろ

    メイさん、ご無沙汰してます
    なんか、油甚さんのブログによると綺麗になられたとか

  2. 2013/10/23 12:54
    くんちゃん、お久しぶりです。さらりぃまんブログ、好調ですね。

    >長浜かと思って降りたらそこは河毛でしたわ
    …ってことは、敦賀行きに乗ってたのね。長浜行きだったら折り返し大阪に戻ってたよ。

    >なんか、油甚さんのブログによると綺麗になられたとか
    油甚さんのお母さま、「よぉ見える色眼鏡」をかけておられましたんよ。
  3. 2013/10/23 13:29
    お久しぶりです^^
    元気にしておられた様子で何よりです。

    そちらの線はとは関係ないですが、近くの国鉄の踏切は手動で開け閉めしてましたね^^

    廃線ハイキングが好きなもんで、余呉湖の方にでも行きたくなりました^^
  4. 2013/10/23 16:52
    砂かけさん、お久しぶりです。もろもろの必要性もあってFacebookを始めましたら、そちらの手軽さになじんでしまってました(^^;)  でも、深い話をしたいときは、やっぱりコブログ、ですね。
    手動の踏切って、いつごろまであったんでしょう? 昭和40年代?  
  5. 2013/10/23 17:04
    県庁文書に、資料があったはず?
  6. 2013/10/23 18:25
    メイさん
    げんきぃ^
    あの辺の事は知らないけど
    おしえてほしいわ
    あんまり行くこともないし
  7. 2013/10/23 18:33
    蓮池踏切。遮断機が手動だったころのことはかすかに覚えているような?でも確実性はありませんが(笑)。開かずの踏切だったことは覚えていますし、今のマンションの位置にヤンマーの倉庫があり、引き込み線がありました。
  8. 2013/10/23 18:34
    米原から乗る北陸線は裏日本への通り庭ですな。学生時代、東京から新幹線で帰って来て北陸線のホームに降りた途端感じた空気の冷たさと聞こえてくる独特のやんす語。都会の電車とは違う直角で木の背もたれ、そして気動車。中途半端に都会人と錯覚している自分がやっぱり田舎者なんだなと強烈に認識させられる空間でしたね。新快速が長浜に来た時は表日本になったと、それこそ錯覚しましたけど(笑)
  9. 2013/10/23 21:08
    メイさん、お久しぶりです。

    北陸線、大学から帰省するとき必ず米原で40分くらい待っていた記憶があります。
    急に乗客数も減って、痴漢にあったことも(^_^;)
    途中で電車の電気が消えるのも、私達は慣れていましたが、友達と乗ると非常に驚いていました。

    父は柳ヶ瀬線のことをよく話してくれます。
    その頃は汽車だったので、トンネルに入る前にはピーと汽笛が鳴ってその合図で窓を閉めるそうです。
    それでも戦争中はガラスが割れていて鼻の穴や耳の穴が真っ黒になったと言っています。
  10. 2013/10/23 22:35
    朝は結構出会いますのにブログ上では久しぶりですね・・・
    スイッチバック・・・敦賀に行く途中にありましたよね。米原田村間は電化じゃない時期が長かったような気がしますが北陸線が交流電化されたときはみんなで祝いましたね・・・・

    下駄やのおじさん
  11. は〜
    2013/10/24 03:07
    私もスイッチバックが思い出です。
    汽車がいったん高い場所まで走って行って、今度はバックで下る勢いを利用してもっと高い場所まで登り、つぎは前進で下る勢いを利用してさらに高い場所へ登って山を越えて行きましたね。

    小学校の遠足で初体験。車内放送もあって、車内は喚声に包まれました。
  12. 2013/10/27 11:08
    小右衛門さん、minoriさん、ぱんやさん、油甚さん、ゆうこりんさん、おおのさん、は~さん、貴重なコメントをありがとうございました。問いかけておきながら、しばし旅に出ていたのでお返事ができませんでした。ごめんなさい。

    油甚さん、ゆうこりんさんとは同世代(ってことにしといて)なので、米原駅での待ち時間、さみしい車内、突然消える灯りのことなど、おなじ光景を覚ています。痴漢に遭ったのは、もっと混んだ電車内でしたけど…(>_<)

    スイッチバックの思い出は強いようですね。その跡がまだしっかり確認できていないので、今度敦賀に行ったとき調べてきます。

    柳ケ瀬駅や中之郷駅の周辺は、当時はたいそうにぎわっていたようです。木之本のまちも、今とは違う風景が見られたのでしょうか。

    ヤンマーの倉庫があったところ、というと、昔そこらへんにボーリング場もありましたね^^; 
    国鉄時代は、チッキって言って荷物を預けたりしましたね。チッキって何語でしょうね。

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