渡岸寺観音堂
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2007/04/28 17:00
湖の北を鎮める観音めぐり
里山の息吹も感じてさあ出発。
聞くところによると、滋賀県は全国的にみても、
平安・鎌倉・室町時代の史料が多く残っているところなのだとか。
なかでも湖北にはその時代の仏像、
とくに十一面観音が集中しているらしい。
そんなところがあるのなら、もう行ってみるしかない。
ということで、
このコースでは豊かな自然に包まれながら、
ほんの一部ではあるけれど、
地元民の手で
大切に守られてきた仏像を収める古寺を巡っていこう。
まずは、
井上靖や水上勉らの文学作品でも紹介され、
日本一の美しさだともいわれる国宝の十一面観音立像の待つ
通称・渡岸寺観音堂へ。
渡岸寺(どうがんじ)観音堂(向源寺)
(仏像拝観300円 9:00~16:00
アクセス: JR北陸本線「高月」駅下車徒歩10分
北陸自動車道木之本ICから車で15分 )
このお寺の縁起と歴史・・・
奈良時代に流行り病(疱瘡)の流行を抑えるために
聖武天皇の勅願によって
泰澄が十一面観音を彫り、観音堂を建立して開かれた。
その後、比叡山の最澄によって伽藍が配置されたという。
元々は慈雲山光眼寺と名乗っていたけれど、
戦国時代、織田信長と浅井長政との戦で
観音堂と仁王門だけを残して焼失してしまったのだそう。
その際、本尊である十一面観音立像は
付近の農民によって土に埋められて難を逃れたという話もある。
後に浄土真宗に宗旨替えして、
光眼寺を廃寺にして向源寺を建てて秘仏を守った。
やがて明治時代になると海外への仏像流出が問題となって、
その十一面観音の流出を防ごうということになったのだが、
浄土真宗は阿弥陀仏以外を祀ることを許していないために
向源寺の持ち物にすることは許されなかった。
そこで、
本堂から離れたところに飛び地をつくって安置し、
向源寺との差別化を図るために
集落名である"渡岸寺"をとって
「渡岸寺観音堂」と名づけられた。
本尊である十一面観音立像は明治時代に国宝に認定された。
この十一面観音、仏像好きの間ではアイドル的存在なのだとか。
(実際に目の当たりにすると、なんだかわかる気がします)
注目すべきはこの観音像の耳。
耳に耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾りが付いている。
これは大変珍しいものだそうで、
全国でもほとんど例がないということらしい。
さらに、十一面観音像のなかでも顔の両脇に
小面が付いているものは他に例がないという。
ほかにも、この観音さま独特のものがたくさんあるそうな。
詳しくは実際に見て、雰囲気といっしょに味わって。
春にはここ渡岸寺観音堂を中心に
「観音の里春まつり」も開催される。
近くには「観音の里歴史民俗資料館」もある。
(高校生以上250円 中学生以下無料
9:00~16:30 月曜・祝日の翌日・年末年始は休館)
この辺り(高月町)には観音像が数多く安置され、
うち5体が国指定にされる「観音の里」として有名で、
ここでは
観音像などの仏像や湖北の歴史・民俗・文化を学ぶことができる。
それでは次の石道寺へと向かおう。
里山の息吹も感じてさあ出発。
聞くところによると、滋賀県は全国的にみても、
平安・鎌倉・室町時代の史料が多く残っているところなのだとか。
なかでも湖北にはその時代の仏像、
とくに十一面観音が集中しているらしい。
そんなところがあるのなら、もう行ってみるしかない。
ということで、
このコースでは豊かな自然に包まれながら、
ほんの一部ではあるけれど、
地元民の手で
大切に守られてきた仏像を収める古寺を巡っていこう。
まずは、
井上靖や水上勉らの文学作品でも紹介され、
日本一の美しさだともいわれる国宝の十一面観音立像の待つ
通称・渡岸寺観音堂へ。
渡岸寺(どうがんじ)観音堂(向源寺)
(仏像拝観300円 9:00~16:00
アクセス: JR北陸本線「高月」駅下車徒歩10分
北陸自動車道木之本ICから車で15分 )
このお寺の縁起と歴史・・・
奈良時代に流行り病(疱瘡)の流行を抑えるために
聖武天皇の勅願によって
泰澄が十一面観音を彫り、観音堂を建立して開かれた。
その後、比叡山の最澄によって伽藍が配置されたという。
元々は慈雲山光眼寺と名乗っていたけれど、
戦国時代、織田信長と浅井長政との戦で
観音堂と仁王門だけを残して焼失してしまったのだそう。
その際、本尊である十一面観音立像は
付近の農民によって土に埋められて難を逃れたという話もある。
後に浄土真宗に宗旨替えして、
光眼寺を廃寺にして向源寺を建てて秘仏を守った。
やがて明治時代になると海外への仏像流出が問題となって、
その十一面観音の流出を防ごうということになったのだが、
浄土真宗は阿弥陀仏以外を祀ることを許していないために
向源寺の持ち物にすることは許されなかった。
そこで、
本堂から離れたところに飛び地をつくって安置し、
向源寺との差別化を図るために
集落名である"渡岸寺"をとって
「渡岸寺観音堂」と名づけられた。
本尊である十一面観音立像は明治時代に国宝に認定された。
この十一面観音、仏像好きの間ではアイドル的存在なのだとか。
(実際に目の当たりにすると、なんだかわかる気がします)
注目すべきはこの観音像の耳。
耳に耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾りが付いている。
これは大変珍しいものだそうで、
全国でもほとんど例がないということらしい。
さらに、十一面観音像のなかでも顔の両脇に
小面が付いているものは他に例がないという。
ほかにも、この観音さま独特のものがたくさんあるそうな。
詳しくは実際に見て、雰囲気といっしょに味わって。
春にはここ渡岸寺観音堂を中心に
「観音の里春まつり」も開催される。
近くには「観音の里歴史民俗資料館」もある。
(高校生以上250円 中学生以下無料
9:00~16:30 月曜・祝日の翌日・年末年始は休館)
この辺り(高月町)には観音像が数多く安置され、
うち5体が国指定にされる「観音の里」として有名で、
ここでは
観音像などの仏像や湖北の歴史・民俗・文化を学ぶことができる。
それでは次の石道寺へと向かおう。
石道寺
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2007/04/28 16:59
隆盛の面影を
静かに見守る村娘
その唇には紅がひとすじ
国道369号を木之本方面に向かって進み、
右折して県道281号に入って進んでいくと、
次の目的地に到着。
「石道寺(しゃくどうじ)」
(拝観料300円 9:00~16:00 月曜休館
JR北陸本線「木ノ本」駅から湖国バス「井明神」下車徒歩10分
北陸自動車道木之本ICから車で15分)
山の懐(ふところ)に抱かれているような
静かな佇(たたず)まいの小さなお堂がある。
元は現在地よりも東に1㎞ほど離れた
三谷川沿いの山の中にあったのだそうで、
平安時代初期に
荒廃していた古刹を最澄大師が
十一面観音と
持国天(じこくてん)・多聞天(たもんてん)を安置し、
比叡山延暦寺の別院として
「石道寺」と名づけて再興したと伝えられている。
平安時代から鎌倉時代にかけては
己高山(こだかみやま)七大寺として栄えたが、
徐々に衰退して1896(明治29)年には、
ついに無住の寺となってしまった。
そこで、
1914(大正3)年に本堂を現在地に移築し、
翌年には石道観音堂(旧高尾寺)と合併して
新たな石道寺として生まれ変わった。
平安時代中期のものとされる
本尊・十一面観音立像は
子授け観音としても知られる国の重要文化財。
ケヤキの一木造に極彩色を施されたもので、
今は、かすかにその面影が見られ、
その唇にはほんのり朱が残っている。
なんとも素朴で柔らかい顔立ちで、
作家の故・井上靖は自著の『星と祭』のなかで
この観音像を
「村の娘の姿を借りたようだ」と紹介しているほど。
その両脇には甲冑で身を固めた力強い
持国天と多聞天が控えて、
観音さまを守っている。
このほかにも
天竺伝来の幡(国の重要文化財)などの寺宝がある。
旧石道寺あとには苔生した墓石がいくつか残されていて
移築する前の面影を留めながら少し寂しげな雰囲気も漂う。
さて、ここからはこの辺りにあったお寺の寺宝を一挙に収蔵した
己高閣と世代閣へ。
静かに見守る村娘
その唇には紅がひとすじ
国道369号を木之本方面に向かって進み、
右折して県道281号に入って進んでいくと、
次の目的地に到着。
「石道寺(しゃくどうじ)」
(拝観料300円 9:00~16:00 月曜休館
JR北陸本線「木ノ本」駅から湖国バス「井明神」下車徒歩10分
北陸自動車道木之本ICから車で15分)
山の懐(ふところ)に抱かれているような
静かな佇(たたず)まいの小さなお堂がある。
元は現在地よりも東に1㎞ほど離れた
三谷川沿いの山の中にあったのだそうで、
平安時代初期に
荒廃していた古刹を最澄大師が
十一面観音と
持国天(じこくてん)・多聞天(たもんてん)を安置し、
比叡山延暦寺の別院として
「石道寺」と名づけて再興したと伝えられている。
平安時代から鎌倉時代にかけては
己高山(こだかみやま)七大寺として栄えたが、
徐々に衰退して1896(明治29)年には、
ついに無住の寺となってしまった。
そこで、
1914(大正3)年に本堂を現在地に移築し、
翌年には石道観音堂(旧高尾寺)と合併して
新たな石道寺として生まれ変わった。
平安時代中期のものとされる
本尊・十一面観音立像は
子授け観音としても知られる国の重要文化財。
ケヤキの一木造に極彩色を施されたもので、
今は、かすかにその面影が見られ、
その唇にはほんのり朱が残っている。
なんとも素朴で柔らかい顔立ちで、
作家の故・井上靖は自著の『星と祭』のなかで
この観音像を
「村の娘の姿を借りたようだ」と紹介しているほど。
その両脇には甲冑で身を固めた力強い
持国天と多聞天が控えて、
観音さまを守っている。
このほかにも
天竺伝来の幡(国の重要文化財)などの寺宝がある。
旧石道寺あとには苔生した墓石がいくつか残されていて
移築する前の面影を留めながら少し寂しげな雰囲気も漂う。
さて、ここからはこの辺りにあったお寺の寺宝を一挙に収蔵した
己高閣と世代閣へ。
己高閣・世代閣
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2007/04/28 16:58
己高(こだかみ)の宝を守る収蔵庫
木々が色づく秋のまほろば
再び県道に戻って281号を北に。
しばらく行くと分かれ道になっているので
右側の道へ入っていく。
川沿いに続く道の前方に岬のように張り出した山が見える。
そこにあるのが、
鶏足寺の収蔵庫
「己高閣(ここうかく)・世代閣(よしろかく)」
(拝観料 両方で500円 9:00~17:00
11月~3月は16:00まで
JR北陸本線「木ノ本」駅から湖国バス「古橋」下車すぐ
北陸自動車道木之本ICから車で10分 )
名前の響きだけで聞くと、なんだか西遊記の金角・銀角みたい。
己高閣・世代閣は与志漏(よしろ)神社境内の奥にある。
与志漏神社の前には戸岩寺の薬師堂が残されている。
近江の国の東北に位置する鬼門であったため、
奈良時代、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ:役行者)や
民衆のために様々な社会事業を行なった行基が
草堂を建てて修験場として開いたことで
山岳信仰の霊場として信仰を集めた己高山(こだかみやま:ここうざん)。
この辺りは時代柄、神仏習合されたところが多い。
平安時代から鎌倉時代にかけて、特に隆盛を極め、
山上には鶏足寺や石道寺を含め、
数多くの寺社が存在していたけれど、
時代の流れと共に次々と無住寺や廃寺となってしまったという。
そうした寺社に残された貴重で膨大な数の寺宝。
それらが失われないように集めて収蔵しようと、
1963(昭和38)年に己高閣、
1989(平成元)年に世代閣が文化財収納庫として建設された。
己高閣には鶏足寺など己高山諸寺の寺宝、
世代閣には戸岩寺の寺宝を主に収蔵してある。
97躯もの仏像や古橋古墳の出土品、
浅井長政の奉納屏風などが収められる。
中には、法華寺の薬師如来立像・乾漆十二神将立像、
鶏足寺(けいそくじ)の本尊だった十一面観音立像、
といった国の重要文化財や、
魚藍(ぎょらん)観音、
七仏薬師如来立像などの県の重要文化財も数多い。
撮影禁止なので写真は載せられないけれど、
これだけのものが一堂に並んでいるというのはスゴイ!!
(けれど、どこか不思議な雰囲気も漂う感じがするのは私だけ?)
己高閣・世代閣は
近在の人たちの手で管理・運営されているそうで、
60歳になるとそこから5年間、その役に就くというから、
この辺りの人の責任感というか、地域の宝を守ろうという心は
なんだか素敵。
この一帯は「まほろばの里」とよばれていて、
紅葉の時期は木々が美しく染まって
錦の織物を広げたかのようになる。
ちょっとしたピクニックにはもってこいなので是非。
さてさて、お次は夏の縁日が有名な木之本地蔵へ。
木々が色づく秋のまほろば
再び県道に戻って281号を北に。
しばらく行くと分かれ道になっているので
右側の道へ入っていく。
川沿いに続く道の前方に岬のように張り出した山が見える。
そこにあるのが、
鶏足寺の収蔵庫
「己高閣(ここうかく)・世代閣(よしろかく)」
(拝観料 両方で500円 9:00~17:00
11月~3月は16:00まで
JR北陸本線「木ノ本」駅から湖国バス「古橋」下車すぐ
北陸自動車道木之本ICから車で10分 )
名前の響きだけで聞くと、なんだか西遊記の金角・銀角みたい。
己高閣・世代閣は与志漏(よしろ)神社境内の奥にある。
与志漏神社の前には戸岩寺の薬師堂が残されている。
近江の国の東北に位置する鬼門であったため、
奈良時代、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ:役行者)や
民衆のために様々な社会事業を行なった行基が
草堂を建てて修験場として開いたことで
山岳信仰の霊場として信仰を集めた己高山(こだかみやま:ここうざん)。
この辺りは時代柄、神仏習合されたところが多い。
平安時代から鎌倉時代にかけて、特に隆盛を極め、
山上には鶏足寺や石道寺を含め、
数多くの寺社が存在していたけれど、
時代の流れと共に次々と無住寺や廃寺となってしまったという。
そうした寺社に残された貴重で膨大な数の寺宝。
それらが失われないように集めて収蔵しようと、
1963(昭和38)年に己高閣、
1989(平成元)年に世代閣が文化財収納庫として建設された。
己高閣には鶏足寺など己高山諸寺の寺宝、
世代閣には戸岩寺の寺宝を主に収蔵してある。
97躯もの仏像や古橋古墳の出土品、
浅井長政の奉納屏風などが収められる。
中には、法華寺の薬師如来立像・乾漆十二神将立像、
鶏足寺(けいそくじ)の本尊だった十一面観音立像、
といった国の重要文化財や、
魚藍(ぎょらん)観音、
七仏薬師如来立像などの県の重要文化財も数多い。
撮影禁止なので写真は載せられないけれど、
これだけのものが一堂に並んでいるというのはスゴイ!!
(けれど、どこか不思議な雰囲気も漂う感じがするのは私だけ?)
己高閣・世代閣は
近在の人たちの手で管理・運営されているそうで、
60歳になるとそこから5年間、その役に就くというから、
この辺りの人の責任感というか、地域の宝を守ろうという心は
なんだか素敵。
この一帯は「まほろばの里」とよばれていて、
紅葉の時期は木々が美しく染まって
錦の織物を広げたかのようになる。
ちょっとしたピクニックにはもってこいなので是非。
さてさて、お次は夏の縁日が有名な木之本地蔵へ。
木之本地蔵院(浄信寺)
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2007/04/28 16:57
地蔵菩薩の守る町
願掛け蛙の祈りよ届け
己高閣・世代閣を出発して
再び県道281号へ。
山を右手に北上して、国道303号へ左折。
山のふもとを掠めながら進んでトンネルを2つ抜ける。
「田部東」という交差点を右折。
町のなかを国道に沿っていくとそこには、
「木之本地蔵院(浄信寺)」
(拝観無料 8:00~17:00
JR北陸本線「木ノ本」駅下車徒歩5分
北陸自動車道木之本ICから車で2分 )
一般的には
「木之本地蔵」や「木之本地蔵院」とよばれて親しまれている。
こちらは、
日本三大地蔵の一つに数えられている地蔵をもつ名刹で、
延命息災、眼病平癒のご利益があると信仰を集めている。
奈良時代の創基、
平安時代前期、
空海が中興したそうだが、賤ヶ岳の合戦の際に焼失。
豊臣秀頼が再興するも江戸時代中期にまた焼失してしまう。
現在の建物はその後再建されたもの。
本尊は地蔵菩薩立像で、重要文化財に指定されていて、
高さ162cm眉間に白毫をはめこんだ寄木造の彩色像。
秘仏とされているので見ることはできないけれど、
境内にはその姿を写したという地蔵菩薩大銅像がある。
1894(明治27)年に本尊の約3倍の大きさで造られていて、
その高さは約6m、
地蔵菩薩の銅像日本一の大きさを誇っているという。
その建立には地元をはじめ、
福井や愛知からも集められた銅鏡を溶かして造られたのだそう。
第二次世界大戦中も当時の住職や、
東条英機の妻・東条勝子らの援助で
兵器にするための供出を免れたという。
本堂には本尊の地蔵菩薩立像と、
両脇に閻魔(えんま)王立像、
倶生神(くしょうじん)立像が祀られている。
いずれも国指定の重要文化財。
2006(平成18)年からは
「御戒壇(ごかいだん)巡り」が催されている。
(志納冥加300円)
参拝者が御堂内の真っ暗な回廊を歩いて
地蔵菩薩の手に結ばれているという錠前に触れることができる。
こんなことを言うとバチが当たるかもしれないけれど、
ちょっと探検気分で楽しい。
他に、境内には国の名勝に指定されている庭園がある。
(見学料100円が必要)
この庭園には眼を患った参拝者が回復するように願をかけて、
片目をつむって暮らしているという蛙が棲むとされ、
「身代わり蛙」とよばれている。
地蔵菩薩大銅像の足元には、
これにちなんだ片目を閉じた蛙の置物が
願掛けのために多く積み上げられ、奉納されている。
毎年8月22~25日には「木之本地蔵大縁日」が行われ、
期間中、参道は露店で埋め尽くされ、
全国から数十万人の参拝者が訪れ町全体が活気に満ち溢れる。
最終日の25日には
フィナーレイベントとして花火が打ち上げられる。
木ノ本駅から続く参道で売られている名物の「でっち羊羹」は、
おやつにもお土産にもピッタリ。
さあ、次は多くの伝説が残る神秘の湖へ。
願掛け蛙の祈りよ届け
己高閣・世代閣を出発して
再び県道281号へ。
山を右手に北上して、国道303号へ左折。
山のふもとを掠めながら進んでトンネルを2つ抜ける。
「田部東」という交差点を右折。
町のなかを国道に沿っていくとそこには、
「木之本地蔵院(浄信寺)」
(拝観無料 8:00~17:00
JR北陸本線「木ノ本」駅下車徒歩5分
北陸自動車道木之本ICから車で2分 )
一般的には
「木之本地蔵」や「木之本地蔵院」とよばれて親しまれている。
こちらは、
日本三大地蔵の一つに数えられている地蔵をもつ名刹で、
延命息災、眼病平癒のご利益があると信仰を集めている。
奈良時代の創基、
平安時代前期、
空海が中興したそうだが、賤ヶ岳の合戦の際に焼失。
豊臣秀頼が再興するも江戸時代中期にまた焼失してしまう。
現在の建物はその後再建されたもの。
本尊は地蔵菩薩立像で、重要文化財に指定されていて、
高さ162cm眉間に白毫をはめこんだ寄木造の彩色像。
秘仏とされているので見ることはできないけれど、
境内にはその姿を写したという地蔵菩薩大銅像がある。
1894(明治27)年に本尊の約3倍の大きさで造られていて、
その高さは約6m、
地蔵菩薩の銅像日本一の大きさを誇っているという。
その建立には地元をはじめ、
福井や愛知からも集められた銅鏡を溶かして造られたのだそう。
第二次世界大戦中も当時の住職や、
東条英機の妻・東条勝子らの援助で
兵器にするための供出を免れたという。
本堂には本尊の地蔵菩薩立像と、
両脇に閻魔(えんま)王立像、
倶生神(くしょうじん)立像が祀られている。
いずれも国指定の重要文化財。
2006(平成18)年からは
「御戒壇(ごかいだん)巡り」が催されている。
(志納冥加300円)
参拝者が御堂内の真っ暗な回廊を歩いて
地蔵菩薩の手に結ばれているという錠前に触れることができる。
こんなことを言うとバチが当たるかもしれないけれど、
ちょっと探検気分で楽しい。
他に、境内には国の名勝に指定されている庭園がある。
(見学料100円が必要)
この庭園には眼を患った参拝者が回復するように願をかけて、
片目をつむって暮らしているという蛙が棲むとされ、
「身代わり蛙」とよばれている。
地蔵菩薩大銅像の足元には、
これにちなんだ片目を閉じた蛙の置物が
願掛けのために多く積み上げられ、奉納されている。
毎年8月22~25日には「木之本地蔵大縁日」が行われ、
期間中、参道は露店で埋め尽くされ、
全国から数十万人の参拝者が訪れ町全体が活気に満ち溢れる。
最終日の25日には
フィナーレイベントとして花火が打ち上げられる。
木ノ本駅から続く参道で売られている名物の「でっち羊羹」は、
おやつにもお土産にもピッタリ。
さあ、次は多くの伝説が残る神秘の湖へ。
余呉湖
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2007/04/28 16:56
街道筋を北へ抜け、
天女が遊び、ワカサギ踊る
神秘を映す鏡の湖(うみ)へ
木之本地蔵のある通りを北へ。
すると途中、北国街道に入っていく。
この辺りは旧「江州木ノ本」の宿場町だったところ。
「馬宿平四郎」というところがあって、
ここは室町時代から昭和のはじめ頃まで
街道筋にある民家を宿にして牛馬市が開かれていた場所。
大河ドラマ「功名が辻」でも取り上げられていた、
千代が一豊に、嫁入りのときに持たされたお金を渡して
名馬を買い求めたのもここが舞台だと伝わっているのだそう。
余呉湖への道すがら
立ち寄って宿場の雰囲気を味わってみよう。
そして、また余呉への道行き。
北国街道を進むと国道365号に合流。
大岩山を左手に山に沿って回り込むようにして行くと、
姿を見せてくれるのが、
「余呉湖」
(JR北陸本線「余呉」駅下車徒歩5分
北陸自動車道木之本ICから車で10分)
余呉湖は、
琵琶湖の北に、
ちょうど賤ヶ岳によって隔たれるように位置している。
その面積は約1.8k㎡で周囲が約6.4kmという小さな湖。
水深は最深部で132mもある。
(琵琶湖の最深部でも103mぐらいなので
大きさの割にとても深い!!)
三方を山で囲まれた断層盆地にあって、
琵琶湖の水面よりも49m近くも高い位置にある。
波一つない湖面に賤ヶ岳の姿や周囲の山々を写すことから
別名「鏡湖」とも呼ばれる。
特に冬の雪化粧に覆われた山の映る様子は格別。
↑冬・賤ヶ岳からの眺め
古くは、琵琶湖を大江(おおえ)、
余呉湖を伊香の小江(おえ)と呼んでいたそうで、
日本最古ともいわれる
天女の羽衣(はごろも)伝説が残っている。
白鳥に姿を変えて水浴びを楽しんでいた8人の天女の姉妹のうち、
伊香刀美(いかとみ)という男に羽衣を取られた
末妹だけが天に帰れなくなり、
夫婦となって2男2女をもうけたという物語。
また、
舟遊びをしていた桐畑太夫という男が、
水浴びをする天女に遭遇して、柳の枝に掛けてあった羽衣を盗み、
上手く言って夫婦となって子どもをもうけるが、
天女が隠してあった羽衣を見つけてしまい、
桐畑太夫と子どもを残して天に帰ってしまったという話もある。
この話の二人の間にできた子が菅原道真であると伝えられ、
湖岸には天女が羽衣を掛けたという柳も現存する。
この柳はヒュードロドロ…の枝垂れ柳ではなく、
中国系のマルバヤナギという種類なので、
探すときには注意が必要。
でも、近くには天女の像があるので
このほかにも龍神・菊石姫伝説などがある。
伝説以外でも、
湖底からは2000年も前の埋没林が発見されるなど
神秘に満ち溢れえた湖なのだ。
余呉湖は魚の種類も豊富で、
余呉湖と琵琶湖にのみ棲息する固有種のイワトコナマズをはじめ、
フナ、コイ、ウナギ、ナマズなどもいて、釣り人にも人気がある。
冬場にはワカサギ釣りで北岸の桟橋は大賑わい。
余呉湖のワカサギ釣りは氷に穴を開ける方法ではなく、
普通の釣りと同じ方法なのだ。
(桟橋の入漁料1300円 その他禁猟区以外では1000円)
夏は水面近くをフナの大集団が回遊する姿が見られ、
冬には水鳥たちもたくさん飛来する。
湖畔には、
遊歩道や、野外活動センターなどの施設が整備されている。
レンタサイクルもあるので、車を置いて
余呉湖をひと回りするサイクリングも気持ちいい。
ハイキングコースもあって、
賤ヶ岳に登って余呉湖を一望してみたり、
のどかな田園が広がるのんびりとした風景に心を和ませながら、
湖周を歩いてみるのもいい。
家族や友達とおしゃべりしながらなんていうのも楽しい。
鏡のような湖と周囲を取り囲む山々に抱かれて、
気分がスッキリ晴れ渡ったら、
再び観音さまに会うために西野薬師観音堂へ出発。
天女が遊び、ワカサギ踊る
神秘を映す鏡の湖(うみ)へ
木之本地蔵のある通りを北へ。
すると途中、北国街道に入っていく。
この辺りは旧「江州木ノ本」の宿場町だったところ。
「馬宿平四郎」というところがあって、
ここは室町時代から昭和のはじめ頃まで
街道筋にある民家を宿にして牛馬市が開かれていた場所。
大河ドラマ「功名が辻」でも取り上げられていた、
千代が一豊に、嫁入りのときに持たされたお金を渡して
名馬を買い求めたのもここが舞台だと伝わっているのだそう。
余呉湖への道すがら
立ち寄って宿場の雰囲気を味わってみよう。
そして、また余呉への道行き。
北国街道を進むと国道365号に合流。
大岩山を左手に山に沿って回り込むようにして行くと、
姿を見せてくれるのが、
「余呉湖」
(JR北陸本線「余呉」駅下車徒歩5分
北陸自動車道木之本ICから車で10分)
余呉湖は、
琵琶湖の北に、
ちょうど賤ヶ岳によって隔たれるように位置している。
その面積は約1.8k㎡で周囲が約6.4kmという小さな湖。
水深は最深部で132mもある。
(琵琶湖の最深部でも103mぐらいなので
大きさの割にとても深い!!)
三方を山で囲まれた断層盆地にあって、
琵琶湖の水面よりも49m近くも高い位置にある。
波一つない湖面に賤ヶ岳の姿や周囲の山々を写すことから
別名「鏡湖」とも呼ばれる。
特に冬の雪化粧に覆われた山の映る様子は格別。
↑冬・賤ヶ岳からの眺め
古くは、琵琶湖を大江(おおえ)、
余呉湖を伊香の小江(おえ)と呼んでいたそうで、
日本最古ともいわれる
天女の羽衣(はごろも)伝説が残っている。
白鳥に姿を変えて水浴びを楽しんでいた8人の天女の姉妹のうち、
伊香刀美(いかとみ)という男に羽衣を取られた
末妹だけが天に帰れなくなり、
夫婦となって2男2女をもうけたという物語。
また、
舟遊びをしていた桐畑太夫という男が、
水浴びをする天女に遭遇して、柳の枝に掛けてあった羽衣を盗み、
上手く言って夫婦となって子どもをもうけるが、
天女が隠してあった羽衣を見つけてしまい、
桐畑太夫と子どもを残して天に帰ってしまったという話もある。
この話の二人の間にできた子が菅原道真であると伝えられ、
湖岸には天女が羽衣を掛けたという柳も現存する。
この柳はヒュードロドロ…の枝垂れ柳ではなく、
中国系のマルバヤナギという種類なので、
探すときには注意が必要。
でも、近くには天女の像があるので
このほかにも龍神・菊石姫伝説などがある。
伝説以外でも、
湖底からは2000年も前の埋没林が発見されるなど
神秘に満ち溢れえた湖なのだ。
余呉湖は魚の種類も豊富で、
余呉湖と琵琶湖にのみ棲息する固有種のイワトコナマズをはじめ、
フナ、コイ、ウナギ、ナマズなどもいて、釣り人にも人気がある。
冬場にはワカサギ釣りで北岸の桟橋は大賑わい。
余呉湖のワカサギ釣りは氷に穴を開ける方法ではなく、
普通の釣りと同じ方法なのだ。
(桟橋の入漁料1300円 その他禁猟区以外では1000円)
夏は水面近くをフナの大集団が回遊する姿が見られ、
冬には水鳥たちもたくさん飛来する。
湖畔には、
遊歩道や、野外活動センターなどの施設が整備されている。
レンタサイクルもあるので、車を置いて
余呉湖をひと回りするサイクリングも気持ちいい。
ハイキングコースもあって、
賤ヶ岳に登って余呉湖を一望してみたり、
のどかな田園が広がるのんびりとした風景に心を和ませながら、
湖周を歩いてみるのもいい。
家族や友達とおしゃべりしながらなんていうのも楽しい。
鏡のような湖と周囲を取り囲む山々に抱かれて、
気分がスッキリ晴れ渡ったら、
再び観音さまに会うために西野薬師観音堂へ出発。