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【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】
テーマ:【広瀬兵庫助】物語
2015/05/25 23:58
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士・高橋修理の説得を依頼しました。修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。
【広瀬兵庫助の事跡を記した「中日新聞」】
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】兵庫助は西軍・石田三成の誘いに応じ、1600年9月15日(新暦10月下旬)関ヶ原の戦いに参戦しました。東軍・徳川家康に内通の西軍・小早川秀秋は家康の大砲を受け東軍に寝返り、西軍は総崩れで敗戦しました。関ヶ原の戦いの詳細は後述します。また、戦国の世とはいえ兵庫助の親族・徳山五兵衛は東軍で戦ったのです。
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】兵庫助は、関ヶ原の戦いで敗戦し、自らを戦死者として剃髪。幼少から仏門に仕える弟の了玄の助言を得て長男と共に東本願寺所属寺院・住職の修行。1602年に福順寺(滋賀県)の住職・西了となり、永遠の平和を求めて新たなスタートをしました。
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い後】戦い後の広瀬兵庫助は、東本願寺(真宗大谷派)で2年間の修行、福順寺の住職・西了として身も心も変身しました。疑う余地のないことは、世のため人のためになる事業を推進するとし、兵庫助一族による寺院建立の実現に取り組み、あとを子孫に託したのです。
【広瀬兵庫助の記録】広瀬兵庫助の記録は、1602年に福順寺(滋賀県)住職・西了としてスタート後は残されていません。関ヶ原の戦いの戦死者として位牌を祀り意識的に記録を残さず仏門一筋で法灯を守ることに専念。兵庫助=西了が激動の人生を閉じたのは1624年で、66歳でした。
【広瀬兵庫助は住職・西了に】1600年の関ヶ原の戦いに敗れた兵庫助は、2年後に「永遠の平和」への祈りを目指して、東本願寺所属寺院の住職・西了として生まれ変わりました。元の領民(近江・美濃)と一族の繁栄を祈り続けたのです。その心は今も着実に受け継がれ息づいています。
【広瀬兵庫助は住職・西了に】関ヶ原の戦いで敗れた兵庫助は、自らを戦死とし位牌を祀り住職・西了となりました。元・領民の永遠の平和を祈願したのです。兵庫助一族は祖父の代から3代続けての一族存亡危機からの脱出を選択しました。真面目に・こつこつ・一生懸命、世のため人のため、の心は兵庫助の人生を支えたのです。
【広瀬兵庫助の心を今に】近江国・美濃国に実在した戦国の武将・広瀬兵庫助にスポットをあて、様々な苦難を乗り越え、どん底から脱出する生き様と兵庫助の心を今に伝えます。関ヶ原の戦いでの敗者を認め、住職・西了として永遠の平和に賭ける兵庫助の生き残りの道を是非お伝えしたいのです。
【広瀬兵庫助と「関ヶ原の戦い」】 慶長3年(1,598年)8月に秀吉が死亡し、2年が経ちました。慶長5年(1,600年)の初夏、兵庫助は近江国佐和山(滋賀県彦根市)城主の石田三成から、西軍での参戦の催促を受けました。参考までに、三成(少年時代は秀吉の養子でした)は秀吉の生存中に、秀吉の(今日でいう)秘書室長の役割を長く務めて、秀吉の信任が最も厚い武将でした。
兵庫助は、石田三成の誘いに応じて鉄砲隊数百人を中心とする約2,000人の部隊で、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)の戦いに赴くこととしました。かつて秀吉に見い出され、長年にわたり仕えた恩に報いるため決断をしたのです。
慶長5年(1,600年)9月15日(当時は旧暦の時代で、現在の暦では10月下旬にあたります)の「関ヶ原の戦い」の状況は、卯刻(午前6時)に石田三成が率いる西軍10万人の軍勢と、徳川家康が率いる東軍7万5,000人の軍勢が、それぞれの陣に着いて対峙しましたが、辺りは深い霧に包まれていました。
辰刻(午前8時)になって、ようやく霧が晴れて戦いが始まりました。初めは西軍が優勢で、東軍が劣勢に戦況が推移しました。その後しばらくの間、小競り合いが続き大きな動きはありませんでした。
西軍の三成は、西軍側につくとしながら全く動かない小早川秀秋(秀吉の夫人の甥)隊を動かそうと、総攻撃を合図する狼煙をあげ、大きく戦況が動き始めようとしました。
対する東軍の家康は桃配山に陣を構え、西軍側にいながら家康に内通しており、動きをみせない秀秋隊を東軍につかせようと揺さぶる作戦にでました。ついに、家康は午刻(正午)過ぎ、松尾山に陣取る秀秋隊へ大砲を撃ちこ込めと命じたのです。それまで、西軍につくべきか東軍につくべきかと動揺をしていた秀秋は、東軍からの砲撃に気が動転して東軍への寝返りを決意、戦いの形勢は一気に逆転しました。
東軍が優勢になると、西軍からは東軍への裏切りが続出し始めました。西軍の島津義弘隊が独自の行動をとり、東軍の陣中を強行に中央突破して伊勢街道(現在の国道365号線)を桑名(現在の三重県桑名)方面への脱出をはかると、ついに西軍は総崩れの状態となりました。
未刻(午後2時)過ぎに、天下分け目の戦いは決着し、家康への忠誠を確固たるものとした東軍が大勝利しました。
余談になりますが、兵庫助の親族で美濃国徳山村(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)に徳山五兵衛がおり、五兵衛はこの戦いで東軍の徳川隊として戦いに加わっていました。戦国の世とはいえ、親族が敵味方に分かれ戦わねばならないという現実がありました。
戦い決し、関ヶ原から北国街道(現在の国道365号線)を長浜方面へ向けて、命からがら逃げていく大勢の兵隊がいました。西軍の三成大将隊の部隊長を務めた兵庫助が率いる部隊です。西軍は途方を失って我先にと敗走し、三成の敗走を見とどけての同じ行動なのです。
後日、三成は東軍側の追っ手により捕われの身となり、家康の命で処刑されました。
兵庫助隊長は、負傷した仲間たちを心配しながらの敗走です。東軍側の追っ手を振り払いながら、その日のうちに新庄城へ立ち返り兵士達を休めて傷を治療 することとしました。だが、新庄城でゆっくりと休む暇はありませんでした。兵庫助は、これからどう生きていこうかと絶望のどん底でした。
翌16日朝、兵庫助は新庄城において部隊の兵士の任務を解き、近江国高山(現在の滋賀県長浜市)の領地へ出発しました。
その日の夕刻には、高山にある広瀬家の館へ到着しました。道中、兵庫助は「戦いに敗れたからには、明日からは生まれ変ることにする」と決意していました。早速、広瀬の館の隣にある観念寺(後に福順寺と改称)へ入り、自分を戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ、住職により髪を剃ったのです。
しかし、兵庫助は近江国高山に長く滞在することはできませんでした。美濃国の広瀬村に残した家族や村人のことが気になっていました。翌日、行く先を告げずに家臣とともに旅立っていきました。
それから2年後、兵庫助は熟慮の末に変心し元の領地の近江国高山へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えることになりました。
【「関ヶ原の戦い」後の兵庫助一族】
兵庫助は、関ヶ原の戦い[慶長5年(1,600年)]で西軍に属して敗戦し、自分を戦死者とし一時行方不明となりましたが、2年後の慶長7年(1,602年)11月になって、元の家臣とともに元の領地である近江国高山(現在の滋賀県長浜市)へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えたのです。兵庫助の空白の2年間における現実と心の葛藤は、新たに生きる道を探す旅「どん底からの脱出」だったのです。
関ヶ原の戦い直後の情勢は、「徳川に怨みをもつ豊臣(西軍)の残された家臣は、東西に散らばって天下の情勢をうかがっており何か事が起これば、そのチャンスに便乗して再び戦いをしようとの企てを捨てなかった」という記録が残されています。しかし、生まれ変わったとする兵庫助は余生を人 の生きる道に役立ちたいとした決心を貫き、弟「了玄」の助言と協力を得て 仏門に仕えることとしました。
かつて兵庫助が城主だった近江国新庄村付近で、その子孫により仏教の布教を行った寺院は、浄休寺(滋賀県)、啓福寺(滋賀県)、光専寺(滋賀県)の三寺で、いずれも家紋は「五三の桐」としました。啓福寺は、後に真敬寺(岐阜県)、真念寺(岐阜県)、啓竜寺(滋賀県)を開基しています。
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【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士・高橋修理の説得を依頼しました。修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。
【広瀬兵庫助の事跡を記した「中日新聞」】
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】兵庫助は西軍・石田三成の誘いに応じ、1600年9月15日(新暦10月下旬)関ヶ原の戦いに参戦しました。東軍・徳川家康に内通の西軍・小早川秀秋は家康の大砲を受け東軍に寝返り、西軍は総崩れで敗戦しました。関ヶ原の戦いの詳細は後述します。また、戦国の世とはいえ兵庫助の親族・徳山五兵衛は東軍で戦ったのです。
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】兵庫助は、関ヶ原の戦いで敗戦し、自らを戦死者として剃髪。幼少から仏門に仕える弟の了玄の助言を得て長男と共に東本願寺所属寺院・住職の修行。1602年に福順寺(滋賀県)の住職・西了となり、永遠の平和を求めて新たなスタートをしました。
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い後】戦い後の広瀬兵庫助は、東本願寺(真宗大谷派)で2年間の修行、福順寺の住職・西了として身も心も変身しました。疑う余地のないことは、世のため人のためになる事業を推進するとし、兵庫助一族による寺院建立の実現に取り組み、あとを子孫に託したのです。
【広瀬兵庫助の記録】広瀬兵庫助の記録は、1602年に福順寺(滋賀県)住職・西了としてスタート後は残されていません。関ヶ原の戦いの戦死者として位牌を祀り意識的に記録を残さず仏門一筋で法灯を守ることに専念。兵庫助=西了が激動の人生を閉じたのは1624年で、66歳でした。
【広瀬兵庫助は住職・西了に】1600年の関ヶ原の戦いに敗れた兵庫助は、2年後に「永遠の平和」への祈りを目指して、東本願寺所属寺院の住職・西了として生まれ変わりました。元の領民(近江・美濃)と一族の繁栄を祈り続けたのです。その心は今も着実に受け継がれ息づいています。
【広瀬兵庫助は住職・西了に】関ヶ原の戦いで敗れた兵庫助は、自らを戦死とし位牌を祀り住職・西了となりました。元・領民の永遠の平和を祈願したのです。兵庫助一族は祖父の代から3代続けての一族存亡危機からの脱出を選択しました。真面目に・こつこつ・一生懸命、世のため人のため、の心は兵庫助の人生を支えたのです。
【広瀬兵庫助の心を今に】近江国・美濃国に実在した戦国の武将・広瀬兵庫助にスポットをあて、様々な苦難を乗り越え、どん底から脱出する生き様と兵庫助の心を今に伝えます。関ヶ原の戦いでの敗者を認め、住職・西了として永遠の平和に賭ける兵庫助の生き残りの道を是非お伝えしたいのです。
【広瀬兵庫助と「関ヶ原の戦い」】 慶長3年(1,598年)8月に秀吉が死亡し、2年が経ちました。慶長5年(1,600年)の初夏、兵庫助は近江国佐和山(滋賀県彦根市)城主の石田三成から、西軍での参戦の催促を受けました。参考までに、三成(少年時代は秀吉の養子でした)は秀吉の生存中に、秀吉の(今日でいう)秘書室長の役割を長く務めて、秀吉の信任が最も厚い武将でした。
兵庫助は、石田三成の誘いに応じて鉄砲隊数百人を中心とする約2,000人の部隊で、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)の戦いに赴くこととしました。かつて秀吉に見い出され、長年にわたり仕えた恩に報いるため決断をしたのです。
慶長5年(1,600年)9月15日(当時は旧暦の時代で、現在の暦では10月下旬にあたります)の「関ヶ原の戦い」の状況は、卯刻(午前6時)に石田三成が率いる西軍10万人の軍勢と、徳川家康が率いる東軍7万5,000人の軍勢が、それぞれの陣に着いて対峙しましたが、辺りは深い霧に包まれていました。
辰刻(午前8時)になって、ようやく霧が晴れて戦いが始まりました。初めは西軍が優勢で、東軍が劣勢に戦況が推移しました。その後しばらくの間、小競り合いが続き大きな動きはありませんでした。
西軍の三成は、西軍側につくとしながら全く動かない小早川秀秋(秀吉の夫人の甥)隊を動かそうと、総攻撃を合図する狼煙をあげ、大きく戦況が動き始めようとしました。
対する東軍の家康は桃配山に陣を構え、西軍側にいながら家康に内通しており、動きをみせない秀秋隊を東軍につかせようと揺さぶる作戦にでました。ついに、家康は午刻(正午)過ぎ、松尾山に陣取る秀秋隊へ大砲を撃ちこ込めと命じたのです。それまで、西軍につくべきか東軍につくべきかと動揺をしていた秀秋は、東軍からの砲撃に気が動転して東軍への寝返りを決意、戦いの形勢は一気に逆転しました。
東軍が優勢になると、西軍からは東軍への裏切りが続出し始めました。西軍の島津義弘隊が独自の行動をとり、東軍の陣中を強行に中央突破して伊勢街道(現在の国道365号線)を桑名(現在の三重県桑名)方面への脱出をはかると、ついに西軍は総崩れの状態となりました。
未刻(午後2時)過ぎに、天下分け目の戦いは決着し、家康への忠誠を確固たるものとした東軍が大勝利しました。
余談になりますが、兵庫助の親族で美濃国徳山村(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)に徳山五兵衛がおり、五兵衛はこの戦いで東軍の徳川隊として戦いに加わっていました。戦国の世とはいえ、親族が敵味方に分かれ戦わねばならないという現実がありました。
戦い決し、関ヶ原から北国街道(現在の国道365号線)を長浜方面へ向けて、命からがら逃げていく大勢の兵隊がいました。西軍の三成大将隊の部隊長を務めた兵庫助が率いる部隊です。西軍は途方を失って我先にと敗走し、三成の敗走を見とどけての同じ行動なのです。
後日、三成は東軍側の追っ手により捕われの身となり、家康の命で処刑されました。
兵庫助隊長は、負傷した仲間たちを心配しながらの敗走です。東軍側の追っ手を振り払いながら、その日のうちに新庄城へ立ち返り兵士達を休めて傷を治療 することとしました。だが、新庄城でゆっくりと休む暇はありませんでした。兵庫助は、これからどう生きていこうかと絶望のどん底でした。
翌16日朝、兵庫助は新庄城において部隊の兵士の任務を解き、近江国高山(現在の滋賀県長浜市)の領地へ出発しました。
その日の夕刻には、高山にある広瀬家の館へ到着しました。道中、兵庫助は「戦いに敗れたからには、明日からは生まれ変ることにする」と決意していました。早速、広瀬の館の隣にある観念寺(後に福順寺と改称)へ入り、自分を戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ、住職により髪を剃ったのです。
しかし、兵庫助は近江国高山に長く滞在することはできませんでした。美濃国の広瀬村に残した家族や村人のことが気になっていました。翌日、行く先を告げずに家臣とともに旅立っていきました。
それから2年後、兵庫助は熟慮の末に変心し元の領地の近江国高山へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えることになりました。
【「関ヶ原の戦い」後の兵庫助一族】
兵庫助は、関ヶ原の戦い[慶長5年(1,600年)]で西軍に属して敗戦し、自分を戦死者とし一時行方不明となりましたが、2年後の慶長7年(1,602年)11月になって、元の家臣とともに元の領地である近江国高山(現在の滋賀県長浜市)へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えたのです。兵庫助の空白の2年間における現実と心の葛藤は、新たに生きる道を探す旅「どん底からの脱出」だったのです。
関ヶ原の戦い直後の情勢は、「徳川に怨みをもつ豊臣(西軍)の残された家臣は、東西に散らばって天下の情勢をうかがっており何か事が起これば、そのチャンスに便乗して再び戦いをしようとの企てを捨てなかった」という記録が残されています。しかし、生まれ変わったとする兵庫助は余生を人 の生きる道に役立ちたいとした決心を貫き、弟「了玄」の助言と協力を得て 仏門に仕えることとしました。
かつて兵庫助が城主だった近江国新庄村付近で、その子孫により仏教の布教を行った寺院は、浄休寺(滋賀県)、啓福寺(滋賀県)、光専寺(滋賀県)の三寺で、いずれも家紋は「五三の桐」としました。啓福寺は、後に真敬寺(岐阜県)、真念寺(岐阜県)、啓竜寺(滋賀県)を開基しています。
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